人形は最良の役者なのか?
このブログで以前にもすこすふれましたが、※ もう一度考えてみました。
エドワード・ゴードン・グレイクの「俳優と超人形」なんて本もありまして、
こうした発言を聞くと、一様に役者としては落ち込むわけですね。どうやってみても、人形にはなれません。
どうして、人形の方が良いのか?
例えば、マンガを好きで読んでいて、
そのマンガが映画とかで実写化されるとしたとき、その映画を見たら
間違いなく、ガッカリしますよね。これって、なぜですか?
マンガは実写では、表現しきれないから?それだけではないですよね。
それよりも夢が壊されと思うのは
自分が作り上げてイメージしていた世界が実写では違うからでは、ないですか?
俳優が演じるキャラが、マンガのイメージと違うからではないですか?
つまり、自分の勝手に作り上げたイメージを生身の人間には、押しつけようがない
この歯がゆさがあるのでは、ないのでしょうか?
これが、人形ならそのイメージを損なうことなく、自分のイメージを投影できる。
ゴードン・グレイクが、演劇は芸術になりえないと言い切ったのは、
自分が演出家として、自分勝手なイメージを生身人間に押しつけられないから?
そういったのではないのですか?人間の持つ不確定さが、芸術に不向きだというなら
人間のつくる全ての物には、芸術性がないことになりませんか?
何かを模倣するだけのリアリティが、最低だというのは
あなたが、イメージを押しつけるから、模倣するしかないのでは?
いかん、いかん、歴史的な大先輩に対してなんてこと書いてるんだ僕は、
こんなこと書きたくて、書き始めたのではないのに・・
つまり、この見解の相違の根本にあるのは、
作品が、監督や演出家のものであるのか、参加者全員の物なのか?
役者は、絵でいう絵の具なのか、筆なのか?筆を持つ腕なのか?
要は、個人の作品なのか、集団の作品なのかという問いかけなのでは?
現状では、撮る側と撮られる側と二分していると思う。
その考え方も、かなり違っているのでは、ないのだろうか?
監督が、ただ自分の持ったイメージを表現したいのなら、役者は人形が一番だろう
そうでない場合は、有名人というお金やオーラを生み出す人たちかな?
役者も役者で、有名になりたいとか、自分をアピールしたいとか、
まあ、それが普通といえば、普通なのですが。。しかし
そんなこと言ってるから、究極、人形になりなさいという訓練を受けさせられる。
そう思うと、かなり不毛な稽古をたくさんしてきたようにも思える
どうだろう、人形になるための訓練でほんとうに良いのかな?
このように書くと極端すぎて、あれですが、冷静にいま自分がやっている
演劇の稽古って、人形になるためでは、ありませんか??????
どんな役でもできるようにって、どこぞの有名人の芸名みたいな発想も
癖をなくしなさいとか、歌も踊りもすべて出来るようになりなさいとか
その先にあるものが、人形をイメージしているとしたら、、、
もちろん、みなさん当然、人形じゃない個性溢れる、オンリーワンの役者だと
いうでしょうね。。。
そういうことが書きたかったわけではないのですが、爆
かなり話がそれてしまいました。
で、人形には決定的に欠けているところがあります。それは、迷いがないことです。
我々は、自分の演技に迷いがなくなるように稽古します(人形化)
しかし、無理です。揺らいでいます。
そう、このゆらぎが、人形と人間の決定的違いではないのでしょうか?
LEDライトの下で行われる演劇と、薪のなかで行われる能とどちらが幽玄ですか?
つまり、ゆらぎです。
この不確定なゆらぎが、人々にゆとりとふあんをあたえ、人生をうつしだして行くのです。
そして一座建立という、発想からはこの人形という思想は、消えていくでしょう。
人形は、十把一絡げになれても、一座建立はできません。
余談ですが、故森繁久弥先生は、楽屋にいつもこの一座建立の掛け軸を飾っていたような?
さてさて、今日は歴史的な人々の意見に反論をしてしまいました。
もちろん、無謀にきまってるのですが、まあ、いろいろ考えるわけです。
はい、ごめんなさい。