十歳で行き詰まって、美とはなんだろうと考えた
実は、僕は早々十歳で人生に行き詰まっていました。笑
勉強もダメ、運動もダメ、音楽は最低、友達もいないし、面白い事も言えないし、貧乏だし
だから、この先どうしたらよいのか、かなりまじめに途方に暮れていました。
そして時間さえあれば、誰も来ない校庭の片隅で、あれやこれや考えていたものです。
誰でもそうだと思いますが、僕は自分には無い物にあこがれを抱いていました。
そしてその頃、十歳の僕にまっくないもの、そう「美しいもの」に憧れていたようです。
でも、憧れていても縁が全くないので、ラチがあかないですよね。
ただそれでも、漠然とですが、美というやつは、たとえ縁もゆかりも無くても、誰にでも、
追いかける権利ぐらいはあるんじゃないかって、そんな風に考えていたんです。
そこで、僕の様な人間でも追いかけることのできる美とは、何なのだろう?
とにかく一生懸命考えました。(すでに、アウトローな人生が始まっていたのか!)
そして、僕なりの結論を出しました!
そう!美とは・・・
真実を追究すること、またその追求する姿勢なのだ!
というものでした。
素晴らしいと思いました、十歳の僕としては、完璧な答えでした。自画自賛!
そこから、何十年かは、この表題が人生の指針のようになりました。
大学も理系に進学したし、演劇をするにしてもリアリティを求めてきました。
ところが、ところがです。
歳を取るということは、恐ろしいものです。
だんだん、この表題は色あせたものになります。
それどころか、なんとなく胡散臭くなってきました。
真実の追究は、他の誰かに悪意を持って利用させることもあるし、、、
そうなんです!
この真実を追究するという行為は、実はほかのだれも幸せにすることが出来ないのではと、
そう思いはじめたのです。いや、それどころか他人を不幸にすることさえある。
戦争にしろ、自然破壊にしろ、ただただ真実を追究した結果なのかもしれない。
つまり、冷静に考えれば、真実の追究はただのわがままでしかないのでは?
真実を追求しているつもりが、
いつのまにか利益しか追求してい科学者も多いし。(これは余談)
真実とか正義とか、他人を責めたり不幸にさせたりすることのがもしろ多い。
これが真実だと正義感に満ちてごり押ししてくる人に嫌悪感を感じるのも事実だし。
そもそも、美とはなんだという問いに対する答えとしては、
真実の追究は、まったく間違っていた!
まあ、こんな簡単なことに気付くのにかなり時間がかかってしまった。
そして、間違いに気付いたときには、人生はほとんど終わっています。笑
じゃあ、この先どうするの?と途方に暮れていました。
そしたら、やられました。
身体教育研究所の野口先生にいとも簡単に、さらっと言われてしまいました。
人は、
何かへの集注感、また何かに向かって集注する姿を美しいと感じるのです。
ああ、そうか、なるほど。
お見事としか、言いようがありませんです。
自分で捜せなかったのは残念ですが
今の僕には、これに勝る考えが浮かびません。
集注の先は、予想がつかないし
目的が定まらないから、誰かが悪用することも出来ない
また他人に迷惑をかけることもない。
そして、集注するその姿は、他の人を魅了することができる。
その姿はきっと美しいと思えるのです。
のこりの人生は、これかな?笑
みなさんは、このことどう思われますか?