文学的思考法に変えなきゃね
某テレビのお天気の番組で、枝垂れ桜はどうして、しだれてるとおもいますか?という問いかけに。
僕は、てっきり、へぇ~という答えがあると期待していた。
そしたら、答えは、枝が細いから、重みでしだれてしまうのです。。。。って。
えーー!枝垂れ桜は、欠陥商品ですか?能力の欠如がまねいた結果ですか?
それはさ、枝が細いからしだれたのではなくて、
しだれたいから、枝を細くしたのではないの??どうなんですか?
科学的思考って、後付け的な結果論を言っているようだけど、
いつのまにか、それこそが原因みたいな論調にすり替わりますよね。
例えば、アドレナリンが出ると興奮するとか、
興奮したから、アドレナリンが出たんですよね。
ホルモンが足りないから、だめだとか、
だめだから、ホルモンがでないんでしょう?
こういうすり替えは、科学的思考で、真実の解明には
必要な事かもしれません。
だけど、いつの間にかすり替えが、勘違いに発展してしまう。
勘違いが、根本的なミスを招いてしまう。
そんな気がするんです。
枝が細いから、しだれたという考えで、納得してるようでは、
いじめはなくならないですよね。(かなり飛躍した)
僕は、大学で化学を学びました。
ですから、このブログでも書いてますが、ロジカルジャンプに憧れてました。
でも、今は理論の飛躍は、人を不幸にする。
そんな漠然とした。不安を感じてます。
法律も、出来たときは良いけど、
そのすぐあとは、その法律に苦しむ人がいっぱい生まれる。
システム化も効率が良いかもしれないが
そのことで、つぶれていく人間性がいっぱいある。
理論もそうに違いない。
考えついたときは、素晴らしいが、
その後は、その理論に縛られてにっちもさっちも行かなくなる。
そもそも、理論の正しさは、現実のそれとは、まったく関係がない。
理論は、ゲームのようにそのルールの中で楽しむ物で、
実際の生活のは何ら関係をもたらしては、ならない。
例えば競馬の結果から、いくら理論を後付けしても、
決して、次の競馬の結果は予測できないのと同じだ。(?例えが変?)
論理的思考が、人を不幸にするなら、どうしよう。
やはり、文学的に思考するしか無いのか!苦手だ。笑
枝垂れ桜がしだれたのは、その方が美しいと桜が考えたのです。
頭を垂れてしのぐ、世知辛い世の中で生きるためにそう選んだのです。
いや、人間にそうしなさいと教えてくれているのです。
自然は、絶対的なものです。そこから教わることの出来ない人に、
この世を楽しむ術は、ありませんよと諭しているのでしょう。
決して、科学的思考で自然を理解したなんて、思わないことが
みんなのしあわせにつながっていく、そう思う。今年の春。失礼。