絶望という名の到達点
2009-08-09
今週は、僕の誕生日週間という事で、かなり偏った事を書かせて下さい。
人は、絶望した時、死を選ぶ事がある。
それは、人生の終焉に値するほどの出来事であるからなのかもしれない。
そして、死を選ぶ勇気を持てない者もいる。いや、あえて選ばなかったとも言える。
生を取った彼らを、人生の敗者と呼ぶのだろうか?勝者と呼ぶのだろうか?
人は、誰もが思い通りの人生を歩みたいと願う。そして、ごく一部の者が、それを果たし歓喜の頂点を味わう。が、その瞬間に死を選ぶ者は、はたしているだろうか?いやそれどころか、更なる高見を目指して、突き進む事になるのだろう。つまり、そんな成功は、人生の終焉には値しない出来事なのかもしれない。
一方、思い通りの人生を歩めない者は、神の不在を嘆いたり、呪ったり、挙げ句の果てに、人生を投げ出したり・・・。
ところで、これは仮説でしかあり得ないのだが、キリストにせよ仏陀にせよ、悟りというものを得られたとして。しかし、その直前に、彼らが直面していたのは、絶望、そのものではなかったのか??
ふと、思うのだが、程度の差があるにせよ、絶望する機会を得られた者には、一発逆転の目が残っているんじゃないか?案外良いところまで来ている可能性が、あるのかもしれない。
勇気を持って生きて欲しいと、思うし、積極的に絶望して欲しい。
人は、二種類の人間がいる。絶望を味わえた者とそうでない者。
49歳の誕生日を前に、考えた事でした。失礼!
←「無くても良い?」前の記事へ 次の記事へ「ミヤコ蝶々先生と舞台」→