表現について

2013-05-20

shinbi

 先日、友人の踊りを見に行きました。それがどんなジャンルに属するのがよく分からないのですが、コンテンポラリーの一つだと思います。当然皆さん何かを、表現しようとしているわけで、お客はそれらから何かを感じ取ろうとその場に居合わせているというわけです。
 そんななか、僕の友達の踊りは、それまでの踊りとは全く違っていた。
 そして、表現ということについてあらためて考えさせられました。

表現というのは、自分や組織や何らかの意図したものを身体を使ったり
絵を描いたり、彫刻したり、色々な方法でそれを実現するものだと思っていました。

ハリウッドの演劇学校では、表現したいものがない人は立ち去りなさい。と言われてます。
これは、何の疑いも無くそうなんだと思っていたし、そういう意味で、自分はダメだなと思ってました。
だって、どうしても伝えたいことは、直接演劇的表現とは、かけはなれていますし。。
でも、今回それだけとは限らないと僕の友達が、示してくれました。
そして、僕の感じたことを率直に伝えたところ、よく分かってくれましたと返事が来ました。
そのことについて友達は、だから表現者として失格ではないかと悩んでいるとも言ってました。
つまり、友達は、何を踊ったのか、それはその場を踊ったのです。
それは、自分から出たものなのか、お客から出た物なのか、その場に元々あったものなのか
はたまた、場のイメージから生まれてきたものなのかは分からない。
いや、生まれてくるものでなく、その場に表現してもらいたくて待っている何か。。
表現してもらいたいのでも無い、ただ分かってもらいたい何かが、その場を埋めているなにか
それらに向かって身体をまかせ、踊っていく。
僕は、この表現法は、古典では当たり前の事だったのではないかと思います。
現代や近代は、個人の時代で、自分という物を押しつけてそれを共感したり、感心したり。
そんなことの繰り返し、だから評価して貰えないと自分が否定されたような絶望感が待っている。
古典的表現者は身を捧げることによって、魂を鎮め、そのこと自体が大事であって、
その場合、評価は関係ない。自分の魂の安全のが大事である。

そして、これらの表現法で僕はもうひとつ決定的な違いを感じた。
自己を表現しようとすると、場はその人に注がれていくが、結果全体として混沌とする。
場を表現しようとすると、踊り手は注目から外れていくが、場が凜としてすがすがしくなる。

つまり、表現とは混沌を作り出すか
鎮魂のための御祓なのか、そんな対局を持ち合わせているのではないのか?
これは、いったい、どれだけちがうことなのか驚くばかりだが、
そんなこと、この歳になって気付く自分も自分だなとさらにおどろくのである。

まあそんなことを、思い。また、いろいろな可能性を夢見るのであった。爆

 

 


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