見えるものと見えないもの

2012-10-30

ise

 元来、日本人は見えないものを大切にしてきたのではないだろうか?例えば、神社もそうだろう。どんなに大きな神社に行ったところであるのは、鏡ぐらいであとは何もない。実際は、見ることもできない。そんな神社に観光に行っても、何が面白いのだろうと、若い頃は思ったものである。
 昔の日本人はこの見えないものに守られていることに感謝し、また同じように畏れもしてきた。
 現在は、どうだろうか、科学が進歩して、色々なものに科学的根拠を求めるようになってきた。
 当然、見えないものに科学的根拠を求めることは難しい。しかも、それが科学の弱点だとしても、それなりに正当性を持っているからたちが悪い。今となっては、見えないものに感謝したり、畏れたりするのは、一部の信仰者の偏った考え方としか思われないていないのかもしれない。
 しかし、一方でこの見えないものを信じるお陰で、道徳が守られ倫理観もたもつことができていたのかもしれない。いわば古人が編み出した、智恵の塊のようなもであったのかもしれない。そして今はどうであろうか、罪は、神でも閻魔様でもなく裁判官が裁くことになっている、裁判で有罪にならなければ、どんなにあくどいことや悪い事でも、問題ないと判断されるようになった。政治家をみていればよく分かるが、裁判で有罪にならなければ、謝罪すら必要ではない。いや、たとえ有罪になったとしても、罰をうければ、謝罪は必要ないと思っている。道徳や倫理はすでに六法全書の中に移ってしまったのだろう。

 ひるがえって、いつものように演劇に戻して考えてみる。我々は、まさか見えるものだけを表現しようとしてないだろうか?いや、見えないものも同じように見えるように表現しようとしてないだろうか?演劇的なものに科学的根拠を与えようとして頑張ってないだろうか?お客様を視覚的に、騙して喜ばせておけば良いとおもっていないだろうか?

 芸術は、みんなに利益を与えられるものではない、もし、できれるとすればすこしでも心に豊かさを分けようと努力しているものなのであろう。
その芸術が、見えないものをおろそかにしてしまったら、もはや欲求のはけ口の一つになってしまわないだろうか?芸能が少し、欲求のはけ口的内容になりつつあるような気がするのは、僕だけなのだろうか?

 風俗と芸術はいつの時代も、紙一重だったのかもしれない。それだけ風俗に、芸術志向があったのであろうし、芸能には風俗志向があるのも確かであったはずだ。しかし、現代は恐ろしいほどの科学の進歩により、我々の心は蝕まれ始めていると思う。こんなことなら、人間よりロボットのが良いじゃないか!と言われてしまう日もまた近いであろう。だからこそ、今、この見えないものをどう扱うかが、たいへん重要なことのように思われる。もう一度、ゆっくり考えてみる必要があるのだろう。

 人が人らしく、いられるのはこの見えないものを大切にする心がキーポイントだったのでは、ないだろうか?
 そして、今、放射能という見えないものが生活を脅かすようになった。相変わらず、科学はそれを無いもののように扱おうとしている。科学は見えないものが嫌いなようだ。そして、見えないものをおろそかにしてきたわれわれが、見えないものの驚異にさらされている現状は、どこかとても皮肉的に感じるのである。

 

 


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