何も無い舞台にて

2013-02-28

kikyou

 守衛さんに鍵をかりる。着到盤の前へ、自分の名前の書かれた木札を裏返す。
 一枚だけ、赤い字から黒い字へ。このことだけが、僕の存在を示している。
 
 神棚に挨拶を終えて、エレベーターへ乗り込む。
 大きくて重い防火扉を開ける。長く続く暗い廊下。
 明かりを付けても、 どこか、憂鬱で暗い廊下。
 数時間後には 歩くことも出来ない程、
 賑やかで活気に満ちあふれるはずなのに
 今はまだ、破れた夢の亡霊やら、失意やら、苦悩の空気が漂う。
 僕は、楽屋の鍵を開け、入る。
 すこし湿気を帯びた空気が、動き出すのをためらっている。
 ああ、今日も始まるか、
 僕は、窓を開け、箒で掃除をし、雑巾がけをし、化粧前を整える
 鏡を開け、どうらんの具合を確認する。水差しに水を入れ、
 一つ一つの道具を丁寧に拭き上げていく。
 珈琲を落とした後は、衣裳と小道具を受け取る。
 そして、舞台へ衣裳小道具を早変わり部屋へ持って行く
 何もなく真っ暗な舞台。燭台のような灯りが、二灯下手と上手に置いてある。
 緞帳はまだ下りてない。あるのは、やはり防火扉だけ
 ここの空気は、なぜかさっきまでの憂鬱な暗い空気と違う。
 暗さの中にも緊張感が走る。僕は、あえて緊張感を感じないように
 無造作に舞台を横切る。袖に衣裳を仕込む。
 やがて、しずかに防火扉が動き出す。広々とした客席が広がりだす。
 一階席、二階席、三階席、、舞台は場内の電気で明るさを取り戻す。
 僕は、この時を待って、舞台へ進む。
 誰もいない舞台、何も無い舞台、広く空いた客席。
 もちろん僕はセンターに立って、正面をみる。ああ、ここに来たか。
 センターに立つと何か、とてつもない充足感を感じる。楽しい。
 やがて、僕は僕の言う機会の決して無い台詞を言い始める。
 セットなんていらない。場内には、従業員の人たちが客席のチェックをしている。
 彼女たちは、この良いシーンを見ることが出来ないのかな?聞かせてあげようか?
 照明が入り出す。点灯チェック、そしてピンスッポット。
 もちろん、僕に向けてピンスポットが入る。僕と等身大の灯り。
 青白いまぶしくないまぶしさ、ありがとう。僕は調光室に向かって手を振る。
 僕の後ろでは大道具さんが動き始める。そろそろ、僕は邪魔なようだ。
 場所を稽古場に移して、ストレッチの後、ダンスして、体操、
 シャワールームで、シャワーを浴びて、楽屋で着替えてから
 楽屋口へ、主役の役者さんたちをお迎えに行く。
 おはようございます。
 実はこの間に、挨拶回り、食堂のメニューのチェック、洗濯、アイロンがけ、チケットの確認。
 あとはメークして、衣裳を着て、もろもろとこなしていく。
 そして、一ベルが鳴り響く。

 


Copyright© 2000 Yasunari KONDO All Rights Reserved.