美を求める心

2011-02-02

kyouto4

 先日、朗読で、小林秀雄さん無私の精神から、「美を求める心」という箇所を読みました。
 まあ、それにちなみまして、僕なりの意見を考えてみました。
 実は、このことを一生懸命考えた時期がありまして、・・そうですね10才のころ。
 誰にも邪魔されない、校庭の片隅で、思いにふけったものです。
 このころ、すでに超ネガティブでして、自分にひどく自信が無くて、
 存在理由がわからないというか、自己嫌悪のかたまりでして
 それで、自分なんかは、美とか縁がないし、そもそも美というものは、
 ある一部の人に与えられた、特権なのだろうか?どうなのか?
 僕の様な人間でも権利はあるのか?そうだとしたら、美とは何なのかと

 で、当時、ない頭で考えた結果が、たしか、美とは真実を求める精神だ
 と結論を出したような、記憶があります。

 今は、どうなのか、と言いますと、
 まずこの真実と言うやつがとっても、現状、くせ者に思えるんですね。
 この真実という言葉が、人の道を迷わせてると思うんです。
 真実をおいもとめた、結果、人殺しやら、仲違いやら、絶望やら・・・
 人を責めたり、嫌ったり、拒絶したりと、真実は良いこと無いですよね。
 だから、この言葉から真実を消すと・・・・

 美とは※※を求める精神だ。
 あれ?
 そうか、
 美とは、無を求める精神だ
 美を求める心とは、無の精神だ。

 ああ、とっても無理矢理な展開っぽいですが偶然ですよ
 
 ただ、この無という概念もとても難解ですね。
 乱暴に平たく、このさい、勝手な意見を言ってしまいます。

 たとえば、道を歩いていて菫が咲いている。美しい
 菫は、僕ではないし、僕の持っている美ではない
 いわば、僕にとっての無の世界
 でも、この無の世界は、愛する人の中にもある。
 彼女は、菫ではないし、菫をもっていない
 つまり、彼女にとっても菫は無の世界
 僕と彼女は、無の世界の中に身を置くことで
 菫の美について、 共有することが出来る
 これが、美を求める心なのかなと・・・・
 
 非常にごめんなさい

 追伸
 あの、朗読会のあいだ、外で待ってた、ファンのかた、本当にありがとう。
 寒かったでしょう
 感謝で、言葉もありません、無とか言ってないで、頑張ります
 良かったら、ここから メール下さい。よろしくお願いいたします。

 


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