舞台の演技と映像の演技

2012-04-30

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 舞台の演技と映像の演技は違うのか?という問いに、ステレオタイプに言うなら違うという事は、いくらでも上げられる。だけど、私は同じだと思う。だから、それを実践するために、映画にも舞台にも出ることにしている。
イザペル・ユペールさんのインタビューより。
 この定義は、難しい。演技を役へのアプローチの仕方と考えれば、たぶん同じなのだろう。
 役作りをして、演じるだけなら、あとは、カメラという視点で捉えるか、劇場という空間で捉えるの違いだけなのかもしれない。しかし、こういう考え方の根本にあるのが、演じる側の視点になっているということだ。
 そこで、いったん視点を観客側に移してみると、それは明らかに違う物であるようだ。
 演技の仕方は、もうどうでも良い、見る側はそんなことを考えてみていないからである。
 たとえば、明らかに違うと考えられる現象として、スクリーンの向こうから見つめられてもさほど気にならいが、舞台上から役者と視線がずっと合っていたら、観客は気まずいはずだ。それは、演者の存在が明らかにリアルだからである。舞台では、レンズというフィルターにかけられることがなく、そこに魂を残存させてしまっているのである。
 演者はリアリティを求めて、演技をするが自らの存在というリアリティが邪魔になる時があるわけだ。
 演者は、純粋な役の人物にはなり得ることは不可能だ。人形が、もっとも優秀な役者だと言った別役実氏の言葉もまた頷けるわけである。
 さてさて困ったものである。で、本当に困った問題なのか?
 ここで、いつものように大きく考え方を偏らせていただく。
 単純に物語を正確に伝えると言うことなら、戯曲を家に帰って読んでもらうのが一番である。現にそういう楽しみ方もあるようだ。しかし、あえて不純物のかたまりである役者が演じる架空の役を見て貰うわけだ。しかも、物語上必要であろう情報よりも、その役者の持つ個人の情報でいっぱいな状態なはずである。それで、良いのかという事であるわけだが。少し、話を変えて説明を試みる。
 フランスの映画監督レオス・カラックスが名作「ポンヌフの恋人」を撮影中のエピソードとして、語られていました。度重なる困難を乗り越えて撮影しているうちに、映画そのものよりも、ここに集まってくれた。スタッフや俳優たちの生活や人生のが大切に思えてきた。と。
 これは、不可解なことと思うかもしれないが、大変重要な事だと、思う。つまり作品とは、映し出された映像だけではない。その背後にある、その映画に関わったすべての人の人生が乗り移ってくる可能性がある。
 ピカソの絵は、キャンバスの上にただの絵具が塗られて描かれていったのではない。彼のアトリエ、彼の腕、彼の生活、パリの空気が、その絵を取り巻くすべてが構成されて描かれていくのであると考えたら。
 それらの混沌をリアルタイムに体験してもらうのが、舞台という装置なのかもしれない。ある作品を作り上げていく上で、一人の役者がその人の人生をちゃんと歩んでいることが、大切なのであって、役になりきるよう努力することは、もはや演劇という儀式の一つの過程でしかないのである。物語の内容は劇場という空間にあってはもはやただのメタファーでしかないのかもしれない。
 我々は、巨大なメタファーの陰で、人生を交錯させる、共演者とスタッフと観客と、言葉も交わさず、触れることもなく、干渉することもなく、芝居のるつぼの中に身をまかせていくのである。そんなことが、できるのものなのか?この問題を考えるとき、舞台の演技と映像の演技の違いは?という問いかけに対して、ただただ戦慄するのである。そして我々は台詞を言う、空虚に満ちた絵空事のように、そのくせ劇的で懐疑的で破壊的な、この言の葉、を。
 そう、僕は人生のほとんどを蝶蝶を追いかけてすごしていたんだね。ごめんなさい。

*すべてフィクションです。僕の出る舞台およびもろもろの関係者うんぬん、いっさい関係ありません
 

 

 


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