Archive for the ‘雑感’ Category

主語の喪失

2013-10-29

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 日本語はしばしば、主語が省かれて表現されてしまう。
 日本人の曖昧さのあらわれでもある。このことは外国人には理解されにくい。
 というのは、外国語はほとんど場合、主語がないと文章が作れないからだろう。
 翻訳が難しいという例題で有名なのが、
 川端康成の小説「雪国」の冒頭の部分

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった

 この文の主語は、たぶん主人公だと思われますが省略されています。
 サイデンステッカーによる英訳では
 The train came out of the long tunnel into the snow country.

 ここでは汽車が、主語になっています。主人公を主語にしてしまうと客観性がなくなり
 情景が広がらないと判断したのでしょう。

 翻訳をする場合、何かを主語にしないといけないのですが、たぶん何を入れても
 情緒がなくなってしまったり、場面の広がりが表現できなくなってしまいます。
 これは、なぜなのでしょう?

 つまり、この文章で表現されている情景は誰のものでもないのです。
 主語は省略されたのではなく、共有されたのです。
 汽車がトンネルを抜けた事実のことはどうでもよく、
 急に広がる雪景色って、経験ありますよね?と経験の共有を促しているのです。
 この経験の共有は、価値判断をしません、だから情緒が保たれているのです。

 ですから、そういう風景って綺麗ですよねとか
 寒そうで嫌だなとか、誰かが自分の考えを言った時点で情緒は消えてしまいます。
 この情景の美しさは、個人の意見が排除されたところにあるわけです。

 こうした共有感覚を日本人は大切にしてきたのだと思います。

 例えば、近所のある夫婦のひとり娘が嫁いだりして、家をでないといけない
 そして、近所の人が、こう言いました

 お寂しくなりますね

 さて、誰が?
 誰でも良いのです。こういう状況の感覚を共有しているのです。

 私たちは、普段ついつい科学的に物事を考えてしまい
 まず最初に価値判断をしようとしてしまいます。
 そして、原因と結果を探ろうとしてしまいます。
 こうした習慣が、物事をはっきりとさせてしまい、感覚の共有が難しくなっています。

 どんなことでも言葉にしないと伝わらないと言われていますが、
 そうした脅迫概念が、なんとなく日々のゆとりを無くしてしまっているのかもしれませんね

 私たちは、個人の価値観を越えた感覚の共有をもう一度、大切にしてみたいですね。

 

こゑをだす

2013-09-28

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 もともと日本人は、自然界の音も声として聞いていると言われています。
 だから、世界で日本ほど擬音が豊富な国は、ないのでしょう。
 逆にそのことが、外国語を習うときに言葉をなかなか聞き取れない原因でもあるらしい。
 ふけにけり 山の端近く 月さえて とをちの里に 衣打つこゑ (新古今和歌集)

 こうしてみると、何か物が出す音もこゑと言っていたようですね。
 つまり、音と声を同じくして聞いているわけです。

 では、もともとこゑって、どんな風に捉えられていたのでしょうか?

 考えられるのは、こうした自然と調和するように使われていた。
 目に見えないなにかの、訪れ(音づれ)を伝えてくれるもの
 神社の榊などは、神の訪れを知らせるためにも使われていた

 こうして、こゑは神聖な一面をもつとも考えられ
 祝詞によって、自分自身すら御祓の対象とすることを可能にしていた。

 山伏はホラ貝を吹き、けっして足を踏み入れてはならない神聖な森を確認していた。

 こゑとは、かくも多様な存在であったと思われる。

 ところが、現代はどうであろうか?科学という抽出好きな、学者たちが
 わけることがわかることだと、こゑを分けまくって、とうとう
 情報伝達の手段が言語であると、かって決めつけてしまった。

 それによって、言葉も情報伝達のためにゆがめられ、長年音の響きとして気持ちよい
 言葉たちは、いつの間にか、聞いていて不愉快な言葉の連続へと変遷した
 そして、言葉を発することは、すでに敵対しているかのような主張だけの世界になりつつある。

 我々が、こゑを発するのは、何かの要求をするときなのだろうか
 何か、うちにあるものを発散するための道具にすぎないのだろうか?

 僕たち、役者は、あまりにも無造作に声を出してきたように感じる
 もちろん、ほぼ誰にでもできる話すという行為をあらためて考える余裕などないのである
 発声練習といえば、腹式呼吸だといわんばかりに腹筋などしたり
 声がかれるまで、バカ声を出しまくったり、そんな次第であり
 内なる感情の高ぶりこそが、声だと教わった。

 そのくせ、役者ならだれでも経験することであるが、
 言葉と感情と内なる気持ちは、一致などしないのである。
 バカ声を出す訓練をしてしまった我々に、繊細な感情をつぶさずに声をはっすることなんて
 まったく無理というか、最初からつながっていないと思う。

 なにかすべてのことが、根本的に間違ってて、間違えのうえに間違えを重ねて
 なにが最初にあったのかすら、分からなくなってしまったのではないか?

 僕は、この歳になって、もういちど基礎の基礎へ立ち戻ることの楽しみを感じる
 もちろん、生活にとっては、百害あって一利なしだけど。

 それが、芸っていうことの自虐性なのかもしれない

 

 

日本ミツバチとスズメバチ

2013-08-31

natsu

 ご存知の通り、日本ミツバチは圧倒的に強いスズメバチに対して、勝つ方法を知っている。
 この時、ミツバチたちは、個々の意志で動くのではなく、集団として意志を持ち、
 個々の命を惜しむことなく、捨ててスズメバチに挑み、やがて勝利する。
 この意志は、心理学でいうところの集団心理とは、まったく違うものだと思う。
 そしてこの方法を実行できるのは、世界中で日本のミツバチだけなようだ。
 これは、蜂の世界の話なのだけども、僕は、なぜかそこに日本人らしさを感じてしまう。
 もちろん、この考えは、悪用されれば、特攻隊のような悲惨な話を
 肯定してしまって、自己犠牲を美化し強要させられる事態を招くおそれがある。
 こちらのほうは、心理学でいうところの集団心理だろう。

 ここは、少し冷静に考えてみたい。
 逆に、もしスズメバチ側からしたら、この恐ろしい日本ミツバチをどうしたものか?
 アメリカ人のような智恵のあるスズメバチがいたとしたら、
 きっと、こうミツバチにささやくだろう

 なぜ集団の犠牲になるんだい?
 君には、生きる権利があるんだよ
 自由に生きるとは楽しいことだよ
 プライバシーは守らなきゃだめだよ。
 女王様に忠誠をちかうなんて馬鹿らしいよ
 まず個人の幸せが優先されるべきだよ

 たぶん、こんな具合ですか?
 このささやきに耳を信じたミツバチは、自分らしく生きたつもりでも
 結果として、スズメバチに滅ぼされることでしょう。

 むかし、ハワイにキリスト教の宣教師が伝来し
 生きがいや、人間らしさをハワイの人に説いたら
 十年で人口が十分の一に減少しとても抵抗力のない人たちになったとか、、?

 話は変わって、サッカーのなでしこジャパンが、ワールドカップで優勝をさおさめたとき
 あの闘いかたこそ、日本ミツバチいや日本人の特性を活かした瞬間だと思った
 個々の思惑を離れ、集団として意志を持ち始めた時、
 個々の能力では勝てない相手に勝利することができる

 それが、証拠にそこにいた彼女たちは、全員が笑顔だった。
 この方法が、日本の文化であるような気がする。
 個々で戦えば、勝ち負けが生じて、成し得たものだけが笑顔を獲得する
 個々を捨てて、集団で戦えば、結果とは関係なく、全員が穏やかになれる
 自己を犠牲ということばは、ネガティブに捉えられるように作られた感があるが
 結果として、幸せは、集団で獲得したほうが楽しいに決まっている
 自分だけが幸せで良いという考えは、実は矛盾しているような気がする。

 近代は、まさにこの矛盾を押しつけて強要する時代であるような気がする。
 矛盾のままじゃあ、みんなで笑顔になれないような気がする。

 

侍クラブを始めて

2013-07-30

samurai

 侍クラブを始めて、もう半年がたちまちした。皆さんにお集まりいただき、御陰様で継続させていただいています。前に所属していた事務所が、モデル系の事務所で、時代劇とは、縁のない仕事ばかりでしたので、まさか、僕が殺陣をするとか、時代劇のうんちくが少しあるなんて、思ってなかった人が多いと思います。

 そんななか昨年、ひょんな事から、竹光を手に入れまして。
 悦に入って自慢していたら、意外と刀に興味のある人が多いことに気がつきました。
 同時に僕自身、若いときに習っていた方法と違うアプローチ方法に興味をもっていまして。
 じゃあ、試してみようということで、侍クラブを始めました。
 まだまだ、試行錯誤しながらですから、
 来ているみなさんにはご迷惑をおかけすることもありますが、
 全く新しい試みでもありますので、よろしくお願いいたします。

 江戸時代、武士の占める割合は5パーセントを切る割合だとか?
 そんなニッチな職業に日本文化を代表する資格はないとする人もいますが、
 不思議なことに、日本文化の根底に流れているものは、恐ろしいほど汎用性があるようです。
 推測の域を超えませんが、結局、百姓だろうが、歌舞伎だろうが、能だろうが
 基礎は同じという事ですか??
 ですから、まあ、鋤や鍬を振り回すよりは、刀のがカッコイイでしょ?
 他の稽古事は、敷居がお高うございますし。勝手に真似できませんしね。笑。
 殺陣には、幸いなことに流派もしきたりも今のところありませんから。。爆
 おまけに外国人の人たちも興味をもってくれて、なんか楽しい気持ちになります。

 日本人は、明治維新と敗戦により、徹底的に文化を喪失してしまったようです。
 今では、文化を味わうにも訓練が必要になってしまったと言うことでしょうか?
 ちょっとした考古学者にでもなった気分で、いろいろ試しています。(おおげさですが) 

 思えば、テレビや映画の時代劇は、娯楽の追求のために、かなり嘘くさい演出もしてきました。
 今、また漫画に描かれることで時代劇に、復活の兆しがあります。
 ということは、さらにエンターテインメント性が要求されてくるでしょう。
 ワイヤーアクションもまじって、いつの間にか中国拳法と区別がつかなくなりそうです。
 それが、良い事なのか悪い事なのかわかりませんが、特に西洋の人たちからみたら
 中国と日本の区別が、あいまいですからね。笑
 そんななか、僕たちのやっていることって、、、
 さきほど、殺陣には正式な流派はないと言いましたが、それにしても、
 殺陣というジャンルからも外れてしまいそうですね。考古学としての殺陣??
 それは、考古学の人に怒られそうです。
 もちろん、武術なんてものからも、かけ離れていますし・・
 要は、見せる殺陣ではなくて、味わう殺陣ですか?
 なにか、良い命名ないですかね~?

 そういえば、全然関係ないですけど、昔、忠臣蔵を演じまして、四十七士だったんですが、
 なぜか、討ち入りの場面は、吉良側になってしまい立ち回りでした。
 その時、思いましたが、あいつら卑怯ですよね。向こうは鎖まで着込んでるのに、、
 こっちは、寝込みを襲われているので、パジャマですよ!しかも、裸足!
 それで、舞台を駆け回るのは、リアルに危険です。刀があたると、くそ痛いし。
 これは、勝てないなと実感しましたが、
 もし、リアルに人生のなかでにこんな場面にでくわしたら、切ないですね。

 それでも、戦う武士の人たちは、ほんとうに勇敢なひとたちだったんだなあ、と思います。

 

 

人形は最良の役者なのか?

2013-06-22

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 このブログで以前にもすこすふれましたが、 もう一度考えてみました。
 エドワード・ゴードン・グレイクの「俳優と超人形」なんて本もありまして、
 こうした発言を聞くと、一様に役者としては落ち込むわけですね。どうやってみても、人形にはなれません。

 どうして、人形の方が良いのか?
 例えば、マンガを好きで読んでいて、
 そのマンガが映画とかで実写化されるとしたとき、その映画を見たら
 間違いなく、ガッカリしますよね。これって、なぜですか?
 マンガは実写では、表現しきれないから?それだけではないですよね。
 それよりも夢が壊されと思うのは
 自分が作り上げてイメージしていた世界が実写では違うからでは、ないですか?
 俳優が演じるキャラが、マンガのイメージと違うからではないですか?
 つまり、自分の勝手に作り上げたイメージを生身の人間には、押しつけようがない
 この歯がゆさがあるのでは、ないのでしょうか?
 これが、人形ならそのイメージを損なうことなく、自分のイメージを投影できる。

 ゴードン・グレイクが、演劇は芸術になりえないと言い切ったのは、
 自分が演出家として、自分勝手なイメージを生身人間に押しつけられないから?
 そういったのではないのですか?人間の持つ不確定さが、芸術に不向きだというなら
 人間のつくる全ての物には、芸術性がないことになりませんか?
 何かを模倣するだけのリアリティが、最低だというのは
 あなたが、イメージを押しつけるから、模倣するしかないのでは?

 いかん、いかん、歴史的な大先輩に対してなんてこと書いてるんだ僕は、
 こんなこと書きたくて、書き始めたのではないのに・・

 つまり、この見解の相違の根本にあるのは、
 作品が、監督や演出家のものであるのか、参加者全員の物なのか?
 役者は、絵でいう絵の具なのか、筆なのか?筆を持つ腕なのか?
 要は、個人の作品なのか、集団の作品なのかという問いかけなのでは?
 現状では、撮る側と撮られる側と二分していると思う。
 その考え方も、かなり違っているのでは、ないのだろうか?
 監督が、ただ自分の持ったイメージを表現したいのなら、役者は人形が一番だろう
 そうでない場合は、有名人というお金やオーラを生み出す人たちかな?

 役者も役者で、有名になりたいとか、自分をアピールしたいとか、
 まあ、それが普通といえば、普通なのですが。。しかし

 そんなこと言ってるから、究極、人形になりなさいという訓練を受けさせられる。
 そう思うと、かなり不毛な稽古をたくさんしてきたようにも思える
 どうだろう、人形になるための訓練でほんとうに良いのかな?
 このように書くと極端すぎて、あれですが、冷静にいま自分がやっている
 演劇の稽古って、人形になるためでは、ありませんか??????
 どんな役でもできるようにって、どこぞの有名人の芸名みたいな発想も
 癖をなくしなさいとか、歌も踊りもすべて出来るようになりなさいとか
 その先にあるものが、人形をイメージしているとしたら、、、

 もちろん、みなさん当然、人形じゃない個性溢れる、オンリーワンの役者だと
 いうでしょうね。。。

 そういうことが書きたかったわけではないのですが、爆
 かなり話がそれてしまいました。
 で、人形には決定的に欠けているところがあります。それは、迷いがないことです。
 我々は、自分の演技に迷いがなくなるように稽古します(人形化)
 しかし、無理です。揺らいでいます。
 そう、このゆらぎが、人形と人間の決定的違いではないのでしょうか?
 LEDライトの下で行われる演劇と、薪のなかで行われる能とどちらが幽玄ですか?
 つまり、ゆらぎです。
 この不確定なゆらぎが、人々にゆとりとふあんをあたえ、人生をうつしだして行くのです。
 そして一座建立という、発想からはこの人形という思想は、消えていくでしょう。
 人形は、十把一絡げになれても、一座建立はできません。

 余談ですが、故森繁久弥先生は、楽屋にいつもこの一座建立の掛け軸を飾っていたような?
 さてさて、今日は歴史的な人々の意見に反論をしてしまいました。
 もちろん、無謀にきまってるのですが、まあ、いろいろ考えるわけです。
 はい、ごめんなさい。
 

 

表現について

2013-05-20

shinbi

 先日、友人の踊りを見に行きました。それがどんなジャンルに属するのがよく分からないのですが、コンテンポラリーの一つだと思います。当然皆さん何かを、表現しようとしているわけで、お客はそれらから何かを感じ取ろうとその場に居合わせているというわけです。
 そんななか、僕の友達の踊りは、それまでの踊りとは全く違っていた。
 そして、表現ということについてあらためて考えさせられました。

表現というのは、自分や組織や何らかの意図したものを身体を使ったり
絵を描いたり、彫刻したり、色々な方法でそれを実現するものだと思っていました。

ハリウッドの演劇学校では、表現したいものがない人は立ち去りなさい。と言われてます。
これは、何の疑いも無くそうなんだと思っていたし、そういう意味で、自分はダメだなと思ってました。
だって、どうしても伝えたいことは、直接演劇的表現とは、かけはなれていますし。。
でも、今回それだけとは限らないと僕の友達が、示してくれました。
そして、僕の感じたことを率直に伝えたところ、よく分かってくれましたと返事が来ました。
そのことについて友達は、だから表現者として失格ではないかと悩んでいるとも言ってました。
つまり、友達は、何を踊ったのか、それはその場を踊ったのです。
それは、自分から出たものなのか、お客から出た物なのか、その場に元々あったものなのか
はたまた、場のイメージから生まれてきたものなのかは分からない。
いや、生まれてくるものでなく、その場に表現してもらいたくて待っている何か。。
表現してもらいたいのでも無い、ただ分かってもらいたい何かが、その場を埋めているなにか
それらに向かって身体をまかせ、踊っていく。
僕は、この表現法は、古典では当たり前の事だったのではないかと思います。
現代や近代は、個人の時代で、自分という物を押しつけてそれを共感したり、感心したり。
そんなことの繰り返し、だから評価して貰えないと自分が否定されたような絶望感が待っている。
古典的表現者は身を捧げることによって、魂を鎮め、そのこと自体が大事であって、
その場合、評価は関係ない。自分の魂の安全のが大事である。

そして、これらの表現法で僕はもうひとつ決定的な違いを感じた。
自己を表現しようとすると、場はその人に注がれていくが、結果全体として混沌とする。
場を表現しようとすると、踊り手は注目から外れていくが、場が凜としてすがすがしくなる。

つまり、表現とは混沌を作り出すか
鎮魂のための御祓なのか、そんな対局を持ち合わせているのではないのか?
これは、いったい、どれだけちがうことなのか驚くばかりだが、
そんなこと、この歳になって気付く自分も自分だなとさらにおどろくのである。

まあそんなことを、思い。また、いろいろな可能性を夢見るのであった。爆

 

 

モチベーションがあるとかないとか

2013-04-30

niwahana1

 レスリングがオリンピックの種目から外れるとか、話題になったときに、
 オリンピックに出られなくなったら モチベーションが保てないという意見が出た。
 これに対して、武道家である甲野善紀師が、武道を志す身にあって、
 オリンピックに出るとか出ないとかで、モチベーションが無くなるというのは、
 本末転倒の話ではないか、と問いただした。これにはもちろん賛否両論が出たわけだが、
 実に面白いところを突いた話だと思う。
 役者も、仕事が決まってないとモチベーションを保つのが大変だと多くの人が言う。
 役者は常に現場にいることが大事だとか、より多くの現場を踏まないといけないとか、
 そのように判で押したようにみんなが言う(故ミヤコ蝶々先生を除く)
 仕事など選んでないで、とにかく現場に出た方が良いという意見が多いわけです。
 僕もそのことで、よく若い人たちから説教されます。笑
 モチベーションの持ち方が悪い(そこまで言わないまでも違うのでは?)とね。
 もちろんこの事に関して、否定するつもりは、全くないしそういう立場にいない。

 しかし、ふと剣の道で考えた場合、現場(真剣の対峙)があることは
 大きなリスクとなる。真の武道家は戦いを避けることを大事とする。
 そして、戦いとなれば、進んで死を選ぶわけだ。(葉隠れ)
 死に直面する現場が、多かれと願う人は少しおかしい。
 つまり、剣を試すことが出来ないからとモチベーションが維持できない
 というのは、もはや心の問題であり、技の修練とは関係が無いのかもしれない。

 例えが極端すぎると、相変わらず、おしかりを受けそうですが、
 この考え方の違いは、なんだとうと考えたとき、
 結果を意識したかどうか、過程を大事にしているかどうか?
 もう少し、くだけて考えると
 評価されること期待しそれを前提にしているか否かなのだろうか?
 評価されないよりはされた方が、良いに決まってるのだから
 それを期待することが、何が悪いと安易に思うのかもしれない。

 しかし、その安易さこそが、本末転倒だと言われた由縁であると思う。
 だれかにご褒美をもらうために、する所業なのか否か?
 現代は結果社会(合理主義)だから、結果よければ良いじゃないかと
 多くの人は、おもう。結果が大事というわけだ。
 結果が同じなら、同じ物であると見なす、現代社会において、
 この価値観の見極めは、とても難しく、またそう教えてくれる先生もいなくなった。

 はっきり言うと、まったく違うのもだと確信に近い予感をこの歳になって
 やっと感じるようになってきた。
 その違いは、成功するかしないかではなく
 どう生きたか、自分と向き合ったかどうかの違いだと思う。
 なんか、無茶苦茶おおげさな話になってしまったが、(少し後悔している)

 しかし、この何をもって取りかかり始めるかという問題は、きわめて重大だと思う。
 そういった意味で、初心忘するべからずです。
 もちろん、僕はまだまだ未熟なので、その粋に達していません。(きっぱり)
 何度も何度も、初心に戻って、自分の方向性を確かめているのです。
 

 

文学的思考法に変えなきゃね

2013-03-29

sakura

某テレビのお天気の番組で、枝垂れ桜はどうして、しだれてるとおもいますか?という問いかけに。
僕は、てっきり、へぇ~という答えがあると期待していた。
そしたら、答えは、枝が細いから、重みでしだれてしまうのです。。。。って。
えーー!枝垂れ桜は、欠陥商品ですか?能力の欠如がまねいた結果ですか?
それはさ、枝が細いからしだれたのではなくて、
しだれたいから、枝を細くしたのではないの??どうなんですか?
科学的思考って、後付け的な結果論を言っているようだけど、
いつのまにか、それこそが原因みたいな論調にすり替わりますよね。
例えば、アドレナリンが出ると興奮するとか、
興奮したから、アドレナリンが出たんですよね。
ホルモンが足りないから、だめだとか、
だめだから、ホルモンがでないんでしょう?
こういうすり替えは、科学的思考で、真実の解明には
必要な事かもしれません。
だけど、いつの間にかすり替えが、勘違いに発展してしまう。
勘違いが、根本的なミスを招いてしまう。
そんな気がするんです。
枝が細いから、しだれたという考えで、納得してるようでは、
いじめはなくならないですよね。(かなり飛躍した)
僕は、大学で化学を学びました。
ですから、このブログでも書いてますが、ロジカルジャンプに憧れてました。
でも、今は理論の飛躍は、人を不幸にする。
そんな漠然とした。不安を感じてます。
法律も、出来たときは良いけど、
そのすぐあとは、その法律に苦しむ人がいっぱい生まれる。
システム化も効率が良いかもしれないが
そのことで、つぶれていく人間性がいっぱいある。
理論もそうに違いない。
考えついたときは、素晴らしいが、
その後は、その理論に縛られてにっちもさっちも行かなくなる。
そもそも、理論の正しさは、現実のそれとは、まったく関係がない。
理論は、ゲームのようにそのルールの中で楽しむ物で、
実際の生活のは何ら関係をもたらしては、ならない。
例えば競馬の結果から、いくら理論を後付けしても、
決して、次の競馬の結果は予測できないのと同じだ。(?例えが変?)
論理的思考が、人を不幸にするなら、どうしよう。
やはり、文学的に思考するしか無いのか!苦手だ。笑
枝垂れ桜がしだれたのは、その方が美しいと桜が考えたのです。
頭を垂れてしのぐ、世知辛い世の中で生きるためにそう選んだのです。
いや、人間にそうしなさいと教えてくれているのです。
自然は、絶対的なものです。そこから教わることの出来ない人に、
この世を楽しむ術は、ありませんよと諭しているのでしょう。
決して、科学的思考で自然を理解したなんて、思わないことが
みんなのしあわせにつながっていく、そう思う。今年の春。失礼。

 

演劇の立ち位置

2013-01-28

hasu

 戦後、GHQが日本にしたことは、教育の変革による思想教育と日本から文化を奪うことでした。
 それは、みごとな成果をあげたと思われます。
 そして、彼らが文化を奪う代わりに与えてたのが、セックス、スポーツ、スクリーンだったと言われています。

 ああ、そうか、スクリーンもなんですね。
 映画に必要なのは、拳銃と女だと言った人もいたような。
 そう思えば、映画って奴は、そういう性質の物なのかもしれない。
 ヌーベルヴァーグといえば、聞こえが良いけど、結局のところ
 映画を通じて、行われた啓蒙思想の伝達だったのだろうか?
 実際映画は、その時その国の事情により変化を強いられた。
 国民に対する思想教育の手段として使われたとは、間違いないだろう。
 今、現在でも、映画は商業的な洗脳の材料として、利用されているし
 そこが、資金源なのだからしょうが無いということなのだろうか?
 セックス、スポーツ、スクリーン、確かにこれらにうつつを抜かしてたら
 文化なんて、どうでもよくなりそうだ。
 そんな折、夏目漱石の草枕の冒頭の一文は、実際心洗われるような気がする。
 山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。
 とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
 やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。
 ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
 あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、
 寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。
 あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。

 この芸術の士はという表現がカッコイイ
 もちろん、僕は詩人でも画家でもない。
 ただ、僕は、ここに演劇の立ち位置を見たような気がしたのですが。

 詩人か~。難しいけど、頑張ろっと。

 

 

フランス語の数字について考える

2012-11-26

notredame

石原慎太郎氏(旧都知事)が、フランス語は、数を数えられない言語だから、国際語として失格だ。
と言ってましたが。橋下徹氏(旧府知事)が、文楽は古いしつまらないと言った発言に似てます。
たいへん支持率の高い人たちですので、それについては、何も言えませんが、
そういう日本語も、10,000を10千(dix-mille)と言わずに1万と読むし。カンマの意味ないじゃん。
それはさておき、フランス語の数字って、なんかとっても面白い数え方をするのです。
60(soixante)までは、普通に10進法で良いのですが、70は60、10(soixante-dix)と読みます。
80は、4,20(quatre-vinghts)です。ですから90は、4,20,10です。(quatre-vingt-dix)
フランス語を習い始めて、最初になんじゃこりゃ~あ、と壁に感じるのですが、
慣れてしまえば、別に気にならなくなるのです。
しかも、このまどろっこしい数字の読み方をフランス人は、
案外好きなのではないでしょうか?
映画「アメリー」冒頭のナレーションを抜粋してみました。見て下さい。

1973年9月3日18時28分32秒、はえの家族が楽しく路で遊んでいた、
1分間に62,670回羽をはばたいて、2秒後にこの世から消えることを知らずに。
同じ頃、9区のトルデ通り28番地の6階に住むコレさんが、・・・

こんな3行に、いくつ数字が出て来たことか、これは数字に負い目を持ってない証拠です。
では、この意見の相違はなんなのでしょうか?

ここから、僕の極論タイムです。
これは、数字を文学つまり感性でとらえるのと、記号つまり知性でとらえる違いでは
日本では、数字を文学にすることが出来なかったでは、つまり生活に根付かなかった。
夜中の2時頃と言われるより、草木も眠る丑三つ時のほうが感性にふれた。
一方、フランスでは数字が日本以上に古くから生活の中に取り込まれていたのかもしれない。
例えば、70分といえば知的だけど、1時間10分と言えば、少し感覚的になります。
リンゴを10進法が良いと言って5つに切る人はいません。だいたい4つです。
方角もそうですし、時計の読み方も針の位置で見るなら、20分とか40分は、確認しやすい。
つまり、フランスの数字はより生活に近いところに存在していたから、このような
読み方になったのでは、ないでしょうか?
日本は、時計がないし、丑寅の方角とか、師走とか春はあけぼのとか言ってるから、
生活の中に数字がない。
お陰で、明治以降、数字を徹底的にただの記号としてとらえることができた。
九九なんて、まさにただの記号遊びですね。
逆に、数字を記号として割り切れないフランス人は計算がとても苦手である。
と言ったまあ、勝手な考察をしてみたわけです。
じゃあどっちが、数を数えられない言語なのか、つまり論点が違ってたわけですね。
感性のフランス語に、知性の日本語ってことで、よしにしましょう。

しかし、これはたいへん重要な問題だと思うのです。
僕たちは数字に限らず、言語を記号として知性の表れとして使うのか
それとも文化の表現として、感性の現れとして使うのか、
じっくりと考える必要があると思うのでありました。

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