Archive for the ‘雑感’ Category

見えるものと見えないもの

2012-10-30

ise

 元来、日本人は見えないものを大切にしてきたのではないだろうか?例えば、神社もそうだろう。どんなに大きな神社に行ったところであるのは、鏡ぐらいであとは何もない。実際は、見ることもできない。そんな神社に観光に行っても、何が面白いのだろうと、若い頃は思ったものである。
 昔の日本人はこの見えないものに守られていることに感謝し、また同じように畏れもしてきた。
 現在は、どうだろうか、科学が進歩して、色々なものに科学的根拠を求めるようになってきた。
 当然、見えないものに科学的根拠を求めることは難しい。しかも、それが科学の弱点だとしても、それなりに正当性を持っているからたちが悪い。今となっては、見えないものに感謝したり、畏れたりするのは、一部の信仰者の偏った考え方としか思われないていないのかもしれない。
 しかし、一方でこの見えないものを信じるお陰で、道徳が守られ倫理観もたもつことができていたのかもしれない。いわば古人が編み出した、智恵の塊のようなもであったのかもしれない。そして今はどうであろうか、罪は、神でも閻魔様でもなく裁判官が裁くことになっている、裁判で有罪にならなければ、どんなにあくどいことや悪い事でも、問題ないと判断されるようになった。政治家をみていればよく分かるが、裁判で有罪にならなければ、謝罪すら必要ではない。いや、たとえ有罪になったとしても、罰をうければ、謝罪は必要ないと思っている。道徳や倫理はすでに六法全書の中に移ってしまったのだろう。

 ひるがえって、いつものように演劇に戻して考えてみる。我々は、まさか見えるものだけを表現しようとしてないだろうか?いや、見えないものも同じように見えるように表現しようとしてないだろうか?演劇的なものに科学的根拠を与えようとして頑張ってないだろうか?お客様を視覚的に、騙して喜ばせておけば良いとおもっていないだろうか?

 芸術は、みんなに利益を与えられるものではない、もし、できれるとすればすこしでも心に豊かさを分けようと努力しているものなのであろう。
その芸術が、見えないものをおろそかにしてしまったら、もはや欲求のはけ口の一つになってしまわないだろうか?芸能が少し、欲求のはけ口的内容になりつつあるような気がするのは、僕だけなのだろうか?

 風俗と芸術はいつの時代も、紙一重だったのかもしれない。それだけ風俗に、芸術志向があったのであろうし、芸能には風俗志向があるのも確かであったはずだ。しかし、現代は恐ろしいほどの科学の進歩により、我々の心は蝕まれ始めていると思う。こんなことなら、人間よりロボットのが良いじゃないか!と言われてしまう日もまた近いであろう。だからこそ、今、この見えないものをどう扱うかが、たいへん重要なことのように思われる。もう一度、ゆっくり考えてみる必要があるのだろう。

 人が人らしく、いられるのはこの見えないものを大切にする心がキーポイントだったのでは、ないだろうか?
 そして、今、放射能という見えないものが生活を脅かすようになった。相変わらず、科学はそれを無いもののように扱おうとしている。科学は見えないものが嫌いなようだ。そして、見えないものをおろそかにしてきたわれわれが、見えないものの驚異にさらされている現状は、どこかとても皮肉的に感じるのである。

 

 

麻薬と芸術と

2012-09-30

nanzen

 ロンドンオリンピックで、大麻はドーピング検査から除外すべきでは?という議論が出ているという記事を読んで、麻薬に対する意識の違いを痛切に感じました。健全な身体に健全な精神が宿るどころか、肉体と精神は、まったく切り離されて考えられるようになってきたのですね。柔道の試合で、麻薬でラリッた両者の戦いが見たいと思うのは、やはり少し、ついて行けないような気がします。
 ひるがえって自分はというと、麻薬を試してみたいと思う気持ちは何度もあったわけで、どうしてなのか考えてみる。僕の様な一般的な、民間人がなぜそう思ってしまうのか?誰かに勧誘されたわけでもないのに。
 もうこれは、テレビや映画の影響以外に考えられませんよね。
 だいたい映倫って、審査しているのはセックスや暴力だけなのかな
 思想や、考え方についてはまったく審査なしなんでしょうね。
 表現の自由って奴ですか?
 自由なら良いのだけど、なにか、巨大な悪意を持った自由はねぇ。
 結果的に自由ってものは、かなり意図的な事が多いですよね。

 まあ、それは良いとして、どうして麻薬は賛美されるのか?
 芸術に対する考え方の違いかも知れません。芸術家イコール麻薬
 麻薬をすれば、セックスは気持ちよいし、想像力が増して芸術家になれる
 肉体的にも精神的にも素晴らしい薬。欠点は中毒と副作用で、死が近くなるだけ
 そして、吉田松陰氏のこんな言葉を思い出す。
「死して不朽の名を残す見込みあらば、すまわち死すべし」
 なら、麻薬を使ってでも素晴らしい芸術を残して死にたいと思いますよね。
 また、それを肯定するかのような映画が多いですよね。
 バスキア、アンディーウォーホル、ガガ、ストーンズ、チェリーカーリーなどなど
 麻薬使って勝ち組になれるのなら、死ぬことは怖くない。
 そんなことより、スパースターたちが味わった気持ちを味わってみたい。
 これはもう、芸のこやしと言わずしてなんといえようか!
 もはや、麻薬の抑止力は法律だけなのか
 それでは、あまりにも非力だ、法律はその時の政府の都合で決まるから
 だから、人の心の抑止力にならない。まして捕まらない人もいるわけだし

 だめじゃん

 だめですよ。麻薬に手を出したら、
 麻薬は、間違いなく片道切符です。もう、戻れません
 いやいや戻れないのは、人生は全てだけど、行き先が決まってしまうということ
 それは、この歳でやっと分かったこと、だから若者は危険にさらされたままですね
 きっと完全な片道切符だとは、誰も言わないと思います。
 それは、説明を間違えれば薬全般に関わることになりますからやばいでしょう
 つまり麻薬がどれだけ危険かは、説明が難しいから、しないと思います

 ただ、昔の日本人は麻薬に頼ることなく、
 素晴らしい芸術的センスを勝ち取ることに成功しています。
 その事を忘れずに、健全な意識の状態で文化を創りたいですね。

 僕は最近ただただ思うのです。
 ある悪意を含んでいるかも知れない巨大な力に
 刃向かったり、期待したり、失望したり、背を向けたりせずに
 粛々と、芸術についてあれやこれや考えて進めることが大切なんだと
 昔の日本人がしていただろうと思われるように
 とっても楽しそうですね。頑張らないとね

 

失敗だらけだよ人生は

2012-08-31

taipei1

 過去は、現在のと共に歩むと言われてますから、まだまだ、今までのいろいろな失敗が本当に失敗か確定したわけじゃないけど、まあ、おおかた失敗ですね。これが、ゲームならとっくにリセットボタンを押しているところでしょう。
 けれども、人生は死なない限りやり直しがきかないみたいだ。
 だから、みんな踏ん張って、立て直そうと頑張るわけだ。
 人生の岐路に立っては、その時その時の最善だと思った方向を選んで進んできた。
 その結果が、現在なのだけど、違う道を選んだらどうなっていたのか?
 そんなことを誰もが、一度は考えるのじゃないのかな。
 よっぽど、自分の成功に酔いしれていない限り、
 どこかでミスったかな?と過去を振りってみたりする
 そう、たぶんそれはミスったんですよ
 もちろん、明らかな失敗もままあるけどね。
 そうなんだよね
 だから、人生って楽しいんじゃないかって、無茶苦茶勝手なことを考えてみる
 だって、舞台をやってて
 ほんと腹をかかえて笑える思い出って、誰かが思いっきり失敗したときだから
 真剣にやればやるほど、失敗って笑えますよね。
 まさに人生なんて、取り返しがつかないわけだから
 そこで、大失敗するってどうよ、笑えま・・・・・・・・せんよ!
 いやいや、神様は、腹抱えて笑ってるかも
 どうなのよ、どっちなのよ
 もちろん、人生は成功するのが良いに決まっているのだけれど
 失敗は、それなりに人生を豊かに演出するためにも絶対必要なでしょう。
 まあ、それぐらいおおらかな気持ちで、人生を楽しんでみる
 しかし、それにしても僕の場合失敗が多すぎだよ。ほんと、くどいぐらい
 さてさて、秋が来ます。みなさんも、失敗を怖れず頑張っていきましょう。

 

山田五十鈴先生のご冥福をお祈りいたします。

2012-07-19

yamada

  お葬式に行けなくて、申し訳ありませんでした。しっかりチェックされて叱られました。ごめんなさいでした。
また一人、すごい人がいなくなりました。ほんとうに悲しいことです。そして、色々とありがとうございました!
「あなた、なんとおっしゃるの?」
「近藤です」
「あら、近藤さんっておっしゃるのね、私あなたのこと好きだわ、また遊びましょうね」ホホホ
「あ、はい」・・(いや、まじ勘弁して下さいていうか無理だから)←心の叫び。
僕にもう少し、実力があったらねぇ、つきあえたかもしれませんが、・・・。
こんな山田先生との会話が、ひどく僕の頭の中に残ってます。笑
森光子さんが、朝まで笑い合ったことを思い出しますとおっしゃってましたが。
その光景は、想像がすぐつきます。あ~、そうか、そういうことねって。(説明不能)
そこには、きっとあんな人も、こんな人もいたんでしょうねえ。勝手に納得。
それはさておき、ほんとうに今でも笑い声が聞こえてきそうで、笑顔の絶えない女優さんでした。
ああ、良い時代だったね~。お金を少しお借りしたこともありましたね。苦しかった!
そして、森繁先生もそうでしたが、横のつながりを大切にしてらしたように感じます。
俳優同士がつどい、あそびながら、芸事を切磋琢磨する環境を作る。
東宝ゆかた会をつくられ、発表の場をつくり、みんな芸を磨きあう。
そう、みんなで一緒に、良くなっていこうと考えていらしてたように感じます。
スターさんというと、運が良くて、綺麗で、人より出たがりぐらいかと思ったらとんでもないです。
山田先生は、僕なんかが一生かけてもたどり着けない領域の人だということが、
歴然とわかる技芸をもっていらっしゃいました。
こんな生粋の芸能人が、今後この日本に出現することできるのでしょうか?
そう思うと、この失った日本の財産は、大きいですね。
実は先生の付き人をしてらした女優さんも、綺麗で実力派で、優しくて、親切だったので
僕は、しつこくつきまとって、ほんとうに色んな事を教わりました。ありがとうございました!
だって、師匠はあまり教えてくれないし、男だし、わざわざ頭下げて聞くのものね~
なんてね。でも、やっぱり綺麗な人から教わると吸収もはやい
そしてそして、先生ほんとうにたくさんの楽しい思い出をありがとうございました!

 

 

喜劇とアドリブと

2012-06-27

kyoto3

 日本の喜劇っていつからあるのだろう?昭和5年にエンタツ・アチャコがデビューする。洋服を着て高座に上がるという新時代が始まる。昭和8年吉本興業が萬歳から漫才へと改称した。華やかな時代の幕開けのようにも思えたが、昭和16年太平洋戦争へと入っていく。
 終戦を迎えるが、瓦礫と化した大阪で、吉本もアチャコを残して、解散する。
 飢えをしのぐため、それでも舞台に立つためにヒロポン中毒が蔓延する。
 仲間の死、身内の死、原爆、満州からの脱出、おびただしい死体の山をみてきた彼らが、そして生きていくために選んだのが、悲劇ではなくて喜劇なんだ。
 僕は、何も知らずに喜劇の舞台に立つ、そして彼らは僕に何も語らない。お笑い以外のことを何も語らない。
 戦争のこと、原爆のこと、ヒロポンの事、すべてなにもなかったかのように。。
 ただ、粛々とお笑いをする。
 あるとき、出演者のひとりの奥さんが、もうすぐ死ぬという時にどうしても最後に夫の姿をひと目みたいと医者と看護婦を同伴で、舞台を見にきた。劇場内笑いの渦の中、僕は、舞台の袖で、見ていて涙が止まらなかった。なんてことだ、こんなかなしい悲劇はないだろうって、この状況で喜劇をする過酷さはなんだろうって、僕は舞台に立つ勇気すら失いかけていた。先輩たちは、そっと肩を叩き「さ、行くよ」と言って、僕を導きそして粛々といつものように喜劇を演じていく。

 この時、僕は気付きました。これが本当の喜劇なんだって、先輩たちは何も語らずに僕に教えてくれていたんだ。彼らの生き様が喜劇なんだって、すごく広大な大地にしっかりと根を下ろした大きな大きな、樹木のように。彼らの笑いが、戦争で失ったみんなの笑顔を取り戻すために必要だったんだ。その使命をしっかりとわかって、おびただしい死者と数限りない悲劇の代弁者として、鎮魂のために舞台にたっているんだって。

 彼らはその神聖さを心のどこかで意識しているとしか、僕には思えなくなった。

 これが喜劇の始まりであるのなら、ほんとうにすばらしいと思う。

 今のお笑いを僕は知らない。吉本はアドリブがすごいよね、面白いよねって言われても分からない。
 ほんとうにそうなの?誰か教えて~。
 喜劇なんだから、アドリブとか入れて、お客さんともっと近くなれば?と言われても僕にはわからない。
 僕は、もう古いタイプの人間になってしまったようだ。

 僕の知っている関西喜劇で、大先輩たちが、アドリブをしたことを一度も見たことがないから。
 面白ければ、なんでも良いって、気持ちになれないみたいだ、どうやら。だめな役者だね。

 

演劇という方向性

2012-05-31

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 小劇場の演劇は趣味なのか、仕事なのかという事について議論を戦わせていた。
 ギャラが無いわけだから、趣味だという意見と
 お客さんからお金を取っているんだから、趣味とか言うなという意見
 微妙に論点がずれているから、もちろん意見はかみ合わない。
 みなさんは、プロという自負を持って舞台を踏む。
 じゃあ、プロってなんだろうって、考えたとき単にお金を稼いでいるから
 という理由なら、演劇論は不毛だろう。
 「そんな考えだから、あんたは売れてないんだよっ」て、言葉でおわるから。
 それなら、あらかじめ所得順に考えを述べておけばよい。
 プロという言葉が、理想という言葉と裏腹に使われている以上、話し合うことは無い。
 商業主義、拝金主義、資本主義、お客のニーズに応える。。。云々
 そこから、脱却できなければ、議論として先へ進まないような気がする
 もちろん、稼がないといけないし、稼がないと輝いていられないのかもしれない。
 その不安定さと、不確定さゆえに、さらに考えを頑固な物にしていくのかもしれない。
 そして、現場の活躍している人のアドバイスが、歴然と正義感をおび、響いてくる
 だから、余計に混乱する、みんな有名になりたいし、稼ぎたいから。

 僕は、演劇を通して、日本文化を語れたら良いなって、漠然と考えているのだけど
 ひょっとしたら、演劇をしている人が一番、文化から遠い存在なのかもしれない。
 それほど、日本の政府は、演劇人を精神的に追い詰めているのだろう。

 高額な入場料を取って、これは趣味ですからと開き直られても困るだろうけど
 友達にチケットの購入をを頼んでおいて、プロですと言われてもどうかと思う。
 稼いでいるかいないかは、別の話と言うことにしていただければ
 要は、お客のニーズに応えるのか応えなののかが、テーマなのだろう。

 冷静に考えれば、簡単だ、お客さんのニーズは、無視するべきだろう。
 百人の人が集まれば、百人の人のニーズがある。それにフィックスするのは無理。
 え~。娯楽なんだから、お客さんに喜んでもらわないと、ダメでしょう。??
 だったら、有名人使って、でかい劇場ですればよい。
 有名人というニーズは、百人が百人納得できるニーズだからだ。
 それは、あたかも役の人物を演じるのではなく、有名人を演じているわけで、
 役のキャラよりも、その人のキャラが勝っているから成立するのですね。
 無名な人は、そう簡単ではない。たとえば、ロミオとジュリエットのジュリエット
 お客さんのニーズは、厳しいぞ、オリビアハッセーだ、そんな16歳どこにもいない。
 当然、違和感を抱くだろう。お客さんのイメージは、多種多様だ。
 要するに、お客さんのニーズに応えていたら演劇が成立しなくなるから
 逆に、こちらからソリューションを提示していくのが自然だろう?
 こんな娯楽も有り、楽しめますよとお薦めしていかないと難しいはなしです。

 演技がうまいとか、下手とかよく言うけど、そんなのほんとにあるのかな?
 そんなことを思う。
 君は芝居が下手だなと言われる。じゃあ、誰がうまい俳優ですか?と聞く?
 返ってきた答えが、大嫌いな俳優だったら、どう思いますか?
 良いよね~と、いわれている人が自分が目指す演技でないとしたら?
 良いといっている人が、ダメなの?自分がダメなの?難しいですよね。
 これも有名人なら、どうでもよい事なのだけど、それじゃあ、話にならないね。
 時々思う。誰かの真似をすると、うまいと言われることが多い。
 自分の思った通りの事をすると、下手と言われることが多い。
 これってさぁ、ひょっとしたら、見る人が単に過去のデータに照らし合わせただけ?
 そのデータが照合されて違和感なければ、うまい。と評価する?
 ジュリエットを演じるときオリビアハッシーの真似をすればよい芝居?
 もし、そうだとしたら、下手ってなに?単にオリジナリティが有り過ぎるだけかも
 だからさ、下手だねって言われても、落ち込むことはないと思いますよ。
 もっと、言ってしまうと、演劇を良いとか悪いとか、評価させたらだめですよね。

 そう、評価させない芝居!って、なんだ~?
 お客さんは、ただ漠然と芝居を見て、納得して帰る。善し悪しは無し。笑

 さて、お客さんのニーズの多様性は良いとしても
 演じる側の俳優も、表現したいニーズがまったくそろわない。笑
 ほんと、笑うぐらい違う。しかも、頑固に違う。
 お客さんには新しいソリューションを提示すれば、納得してくれる可能性があるけど。
 役者には、その寛容さすら無い様な気がする。しかも、目標が売れること
 つまりが、商業主義であったり、有名志向であったりして、協調性はない
 競演であって、共演できない。もちろんそうでない劇団もあるでしょうが、
 その場合、だいたい劇団自体が商業的に成功をおさめているか
 ある強烈な独裁者を擁しているかのどちらかでしょう。極論ですよ。
 普通に集まれば、烏合の衆となりやすい。
 さあ、大変だ。どうします?
 一つにまとまるための宗教も無ければイデオロギーもない現代。あるのは金だけ。
 しかし、小劇場に一番欠落してるのが、そのお金。
 もうこうなったら、ひとつにまとまろうなんて、幻想は捨てた方が良さそうだ。
 烏合の衆は、そのままカオスとして、浮遊するエネルギー体として動く。
 エントロピーは、増大しながら、ヒッチコックの映画のように、一つにまとまる。
 それを可能にするのは、その潜在能力を持っているのは、まぎれもない日本人だ
 戦国時代の武将は、それをやって実現した人たちなのかもしれない。
 欲望という名の電車から降り、混沌の河を渡るのだ、そして、血からをもらい伝ふ。
 さあ、パラダイムシフトの始まりだ、わくわくするぞ。

 無茶苦茶な内容になってしまった。かなり妄想してしまった。
 勝手な長いつぶやきでして、関係団体、知り合い等、まったく関係のない話です。
 ごめん

 

舞台の演技と映像の演技

2012-04-30

lv

 舞台の演技と映像の演技は違うのか?という問いに、ステレオタイプに言うなら違うという事は、いくらでも上げられる。だけど、私は同じだと思う。だから、それを実践するために、映画にも舞台にも出ることにしている。
イザペル・ユペールさんのインタビューより。
 この定義は、難しい。演技を役へのアプローチの仕方と考えれば、たぶん同じなのだろう。
 役作りをして、演じるだけなら、あとは、カメラという視点で捉えるか、劇場という空間で捉えるの違いだけなのかもしれない。しかし、こういう考え方の根本にあるのが、演じる側の視点になっているということだ。
 そこで、いったん視点を観客側に移してみると、それは明らかに違う物であるようだ。
 演技の仕方は、もうどうでも良い、見る側はそんなことを考えてみていないからである。
 たとえば、明らかに違うと考えられる現象として、スクリーンの向こうから見つめられてもさほど気にならいが、舞台上から役者と視線がずっと合っていたら、観客は気まずいはずだ。それは、演者の存在が明らかにリアルだからである。舞台では、レンズというフィルターにかけられることがなく、そこに魂を残存させてしまっているのである。
 演者はリアリティを求めて、演技をするが自らの存在というリアリティが邪魔になる時があるわけだ。
 演者は、純粋な役の人物にはなり得ることは不可能だ。人形が、もっとも優秀な役者だと言った別役実氏の言葉もまた頷けるわけである。
 さてさて困ったものである。で、本当に困った問題なのか?
 ここで、いつものように大きく考え方を偏らせていただく。
 単純に物語を正確に伝えると言うことなら、戯曲を家に帰って読んでもらうのが一番である。現にそういう楽しみ方もあるようだ。しかし、あえて不純物のかたまりである役者が演じる架空の役を見て貰うわけだ。しかも、物語上必要であろう情報よりも、その役者の持つ個人の情報でいっぱいな状態なはずである。それで、良いのかという事であるわけだが。少し、話を変えて説明を試みる。
 フランスの映画監督レオス・カラックスが名作「ポンヌフの恋人」を撮影中のエピソードとして、語られていました。度重なる困難を乗り越えて撮影しているうちに、映画そのものよりも、ここに集まってくれた。スタッフや俳優たちの生活や人生のが大切に思えてきた。と。
 これは、不可解なことと思うかもしれないが、大変重要な事だと、思う。つまり作品とは、映し出された映像だけではない。その背後にある、その映画に関わったすべての人の人生が乗り移ってくる可能性がある。
 ピカソの絵は、キャンバスの上にただの絵具が塗られて描かれていったのではない。彼のアトリエ、彼の腕、彼の生活、パリの空気が、その絵を取り巻くすべてが構成されて描かれていくのであると考えたら。
 それらの混沌をリアルタイムに体験してもらうのが、舞台という装置なのかもしれない。ある作品を作り上げていく上で、一人の役者がその人の人生をちゃんと歩んでいることが、大切なのであって、役になりきるよう努力することは、もはや演劇という儀式の一つの過程でしかないのである。物語の内容は劇場という空間にあってはもはやただのメタファーでしかないのかもしれない。
 我々は、巨大なメタファーの陰で、人生を交錯させる、共演者とスタッフと観客と、言葉も交わさず、触れることもなく、干渉することもなく、芝居のるつぼの中に身をまかせていくのである。そんなことが、できるのものなのか?この問題を考えるとき、舞台の演技と映像の演技の違いは?という問いかけに対して、ただただ戦慄するのである。そして我々は台詞を言う、空虚に満ちた絵空事のように、そのくせ劇的で懐疑的で破壊的な、この言の葉、を。
 そう、僕は人生のほとんどを蝶蝶を追いかけてすごしていたんだね。ごめんなさい。

*すべてフィクションです。僕の出る舞台およびもろもろの関係者うんぬん、いっさい関係ありません
 

 

 

正座について、考える

2012-03-31

kankoku

 正座については、もちろん諸説あるわけで、なにがほんとなのかも解りませんが、一般的に僕と同世代の人間に、正座って良いよね、と言えば、うん良いよねとかえってくる。しかし、子供には、進めないと言う。なぜ?と聞くと、必ず、がに股になるから、足が短くなるから、膝に良くないから・・といった理由がかえってくる。結果として、正座はしなくなる方向にあるようだ。もう、正座が出来ない子供もいると聞く。
 明治維新が、徳川幕府の全否定から、始まり現在に至っている事を考えれば、江戸時代に広まったと考えられる正座は、現政府(いまだに維新を名乗る西軍があるようですが)にとって、やはり憎むべき文化の一つなのかもしれない。そういった側面から、考えると少し面白いことに気付く。
 まず、なぜ徳川は、正座を進めたのか?それは、ひとえに国民の足を奪うことが目的だったのかもしれない。朱子学を官学にすえ、正座をすすめた。両足を折りたたみ動くことを封じ込めた。このことは、後に西南の役で、民兵が走ることが出来なっかったことで実証された。このあと、慌てて西洋式の軍隊の行進を取り入れることになり、急速に生活様式を西洋化していったのである。
 しかし、その反面、徳川が意図したかどうかは、別として、他の作用を国民にもたらしていった。手や足や言動を封じ込められ、しかも19世紀の強力なヨーロッパの影響からも隔離され、人は向かうところを、人間の内面に求めるようになった。そして心の充足に文化の土台を築くようになった。武道と呼ばれるものはすべて、神社かお寺に籍をおくようになる。技は心と一緒に磨くものになった。やがて、人々は、わび、さびなど、究極の質素なる快楽を見いだし文化として残していった。
 明治維新以降、人々は足を取り戻した。今では好きなときに、好きな国へ行くことができ、手や足や自由な思想を持つことに喜びを見いだしている。西洋の文化もすごい勢いで、日本に入って来た。啓蒙思想が、台頭しやがて現在の拝金主義に至る。
 明治政府はそれでも、反幕府をやめない。畳を不衛生だと排除し、老人にやさしくないと言って、玄関を低くし、いづれ靴のまま、部屋に上がれるよう準備を進めている。(もし、銀座の新歌舞伎座に下足番が、いなくなるような楽屋になるのなら、、、それは恐ろしいほどの西洋化である)
 合理主義が、便利な生活や華やかな生活を作り出してくれたのは、分かる、しかし、うすうす気付いている人たちもいるとおもうが、生活は便利になったが実際生活は豊かになったのだろうか??
 便利さが豊かさを運ぶと思われていた時代は、とっくに終わっていないだろうか?
 そして、飛躍的に便利になったこの百年の間に、文化を創ることができたのだろうか?
 そうなんだとおもう、この百年間の間に文化を創ることが出来ていたのなら、生活も便利さとともに豊かになっていたはずでしょう。しかし、それが、出来なかった。なぜなんだろう。その事を深く考えることは、私たちが今後このこの国を生きていくに当たってほんとうに重要なことだと思う。一つ言えることは、文化は人が創るもので、マスコミが作るものでも、まして機械つくるものでもないということ。もう鎖国は赦されない、それどころか、現政府は最後の仕上げとして、TPPの参加に向けてまい進している。もう、時間は残されていない・・・。

 西洋化された生活が、文化になってないなと痛感するとき、僕だけかもしれないが・・・
 例えば、ソファーに腰掛けたときの所在なさにくらべて、畳の上に正座したときの安心感は比べものにならないような気がする。ソファーでは、あまりの心細さに足を組んでしまいたくなる衝動に駆られないか??
 椅子の生活を文化にまで、高めることが出来ていないのだと思う。
 文化を見失ってしまった国民は、日本だけなのかもしれない。もっとその事に危機感を抱きたい。そして、僕は、なぜか三河に生まれてしまった。ということは、今、正座を佳しとする気持ちも、なにかの運命かもしれない。そう、思いつつ、新しい文化の創造と、古い文化の研究をつづけて行くことにします。

 

日藝の皆さんありがとう、そして卒業おめでとう!

2012-01-28

color

 今年卒業される日大芸術学部のみなさま、卒制に参加させて頂きありがとうございました!
 予定があわず、お断りをしてしまった作品もありましたが、(残念)
 こんな、しがないおやじに声をかけて頂き、心から感謝してます。
 そして、みなさん卒業おめでとうございます。
 たまに、暴言も吐いたりもしましたが、おおむね気持ちよく参加できました
 今思えば、楽しかったな~~。学生って良いですね^^
 卒業後、それぞれの道を歩むことになると思いますが、頑張ってね
 そして、またみんなで、集まって映画でも撮れたら良いですね。
 別に、違う職種に就いたとしても、気持ちさえ残しておけばOKだと思います
 僕は、残念ながら就職の経験がなくよく分かりませんが・・
 そろそろ、友達たちが定年を迎え、「これからは自分の好きなことをするぞっ!」って
 そういう友達をみてると、それもありだな~って、それに比べて自分は何してたんだろ
 随分、時間を浪費してきましたね。
 時間の流れだけは、平等にやってくるって言われてますが、使い方は自由です。
 若い時って、将来に残された時間がありすぎて、実感がわかないと思います。
 それよりも、将来の可能性が有り過ぎて、かえって不安ですよね。
 だから、今、夢中になれることに夢中になれば良いんじゃないのかな~
 それが、無い人は、夢中になって、それを捜せば良いんじゃないかな~
 結果なんて、なるようにしかならないし、人生経験を財産にしましょう。
 良い思い出を作って、後でニヤニヤしろって言ってるんじゃないですよ。
 過去は、終わったことではないのです。現在と一緒に、動いているのです。
 一生懸命生きた経験は、現在を生きるための戦力でもあるんです。
 人生設計も大事だと思うけど、その設計図のために、夢中になれない事が続くなら
 設計の変更にも、柔軟に対応できないとね。
 とにかく、時代は混沌としてきました。設計図も回路図もない人生が、始まります。
 頑張って下さい。行き詰まったら、また仲間を集めましょう
 応援してますよ~。期待してますよ~。

 

 

 

理論と実技の狭間で

2011-12-31

kyoto2

 僕は、考え事が好きなので、理論派のほうだと思います。
 ていうか、あまり演技を褒められたことがないので、理論派にしておいたほうが気が楽だ。
 もちろん、理論の限界は、理論によって知っているつもりです。
 そして、演技というのは、間違いなく実技で理論の必要性はあまりない。
 事実、理論を全く無意味だと、嫌う人も多いのが現状でしょう。
 まあ、出来もしないで、理論を並べられたら、イラッと来るのも分かりますが
 特に、売れている人で、理論を口に出す人は、皆無に近いでしょう。
 いつしか、理論とは、負け犬の遠吠え的な色合いが濃くなってしまった。
 仕事が順調だからと言って、理論を敬遠することが
 事故は起きないから安全対策しない、どこぞの会社のようでは困りますが
 口に出さないだけで、皆さん自分なりの理論は、持っている事と思います
 じゃあ、なぜ理論を語ろうとしないのか・・・
  自分の理論を盗まれたくないから
  理論を語ることが、売れてる人間として恥ずかしいから
  もともと考えたことがない
  理論どおりに実技できないとみっともないから
  そもそも、そんなものは共有するものではないと思っている
 さてさて、どうしてなんでしょう

 ま、そんな薄い話は、この辺にしておいて、ここから勝手な持論の展開~
 ある物事を学ぶとき、理解することと会得することは違います。
 会得するという言葉に、対応するいい感じの言葉が中国語にもフランス語にもない
 残念ですけど、でも日本人ならこの違いは分かりますよね。
 つまり、実技とは、理解しただけではだめで、会得しないと意味がない。
 さてさて、ここで、理論とは、理解するために必要で、会得したら忘れるもの
 そう、だとしたら、理論を引きずっているうちは、会得できていない証拠。
 次に会得した人は、理論を忘れてしまうから、語ることが出来ない。
 有名人が理論を語らないのは、もう出来てる人だから!(そう願いたい)
 すれば、理論を語ることは恥ずかしいことと思う人がいても不思議でない。
 みごと解決。笑

 でも僕は、理論を否定したわけでは、ありませんよ、大好きですから
 それに、会得出来てないことだらけですから、理論は捨てられません。
 逆に、理論を否定してる人は、自分の出来ないことがわからない人
 かも知れませんよ。それに、すべて出来る人って、少しかわいそう
 理論とは、自分の至らないことを確認するためのもののようです。

 最後に、難しい問題を残しました。
 もともと、理論とは、技術を人に伝える為にあると思っていました。
 だから、必要だと、自分も大切にしてきました。
 しかし、人にほんとうの技術を伝えるのは、結局
 見て学べとか、口伝にて、伝えるとしか出来ないのでしょうか

 最後にフランスの心理学者、哲学家ジャックラカンの言葉がよぎります
 「わたしはつねに真理を語ります。でもすべてではありません。
 なぜなら、真理のすべてを語ることは、素材的に不可能だからです。」

 理論が言葉によって、構成されている以上、真理に近づけないって事ですよ

 

 

 

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