Archive for the ‘雑感’ Category

芸名について、考える

2011-10-10

moliere

 先日、落語を聞きに行った時に聞いた話ですが、落語家さんの芸名は、先輩が付けるそうで、自分では選べない。「それで、こんな名前付けられて、終わったと思いました。」笑なんて、言ってました。
 最近Facebookを始めたら、本名で登録してしまって
 本名と芸名が、交錯する状態になってしまい、
 ふと芸名ってなんだろうって、考えてしまいました。
 実は、僕の芸名も他の人に付けて頂きました。
 やはり、自分の芸名を見たときは、それなりの違和感がありました。
 この違和感は、実は大事なことではないかと最近思うのです。
 日本の芸能は、元々自分の意志で自分の芸名を決めていないのでは
 芸名が当たり前の世界と言えば、能、歌舞伎、落語、相撲、行司、僧。。
 これらの芸名とは、自己主張のためではなく、どちらかといえば逆で
 自分との別離を意味するのではないのでしょうか??
 能に至っては、世阿弥陀仏だとか、観阿弥陀仏とか、もう現世の人ではないのです。
 お坊さんも、俗名を捨てるのは、世俗に未練を残さないためだそうです。
 演劇も、元をたどれば、政(まつりごと)、祭りごとから、始まったようだし。
 今のとなっては、ただの娯楽となってしまったのかもしれませんが、
 それでもやはり、長い歴史を考えれば、僕は、気軽に、この一線を
 お金のためとか、快楽のためとか、今だけの事を考えてとかで、
 踏みにじっては、ならないような気がしています。
 役は、頂く物であって、自ら得る物ではない。そのためにまず自分を捨てる
 芸名にすることは、自分を捨てる第一歩だったのかもしれない
 そう思うことで、自らの身を引き締め、先人たちの知恵にあやかって
 もう少し、この難解な演劇という奴を掘り返してみたいと思うのです。
 そして、もし僕が、ある掘り起こしてはいけない物を掘り起こしてしまったとき、
 身代わりになってくれるのも、この芸名である僕なのかもしれない
 パンドラの箱は、もう開いている

 

 

フランスと私

2011-09-12

vel

 フランスという国は、日本と人種も違うし言葉も違うし、風土も違う。いやいや、そればかりではなくて、文化も考え方も宗教も価値観も食事も・・違うというよりは正反対に近い??そんなこの地球の裏側の国
 私は、フランスに不思議なほど魅力を感じた。
 もちろん、映画に出たからだと言えば、それまでなのだが
 はや、10年も経過しようとしてるのに・・なぜか変だと思う。
 それと同時に、最近、奇妙なほど日本文化の重要性が感じられ始めた
 みんなもご存じの岡本太郎氏は、10年フランスで過ごし
 戦争後、強烈なほどの情熱を持って日本文化に帰依している。
 私の現在の師匠、野口裕之師もまた、
 日本人のフェイクさを実はフランス滞在中に発想したという。などなど
 比べるのもおこがましいのですが、僕が好きな人たちの中に不思議と
 フランスというキーワードが隠れているような気がする。
 しかも、それが日本の文化に夢中な人ばかりなのです。
 私がそうだから、勝手にそういう風に映ったり注目してしまうのか
 はたまた、なにかの因果関係でもあるのだろうか
 まったくの謎なのですが・・、
 異国に行って自国の事を知ることはよくありますよね
 それにしても、フランスは異常だ!へへ
 時代は、どんどんグローバル化していくでしょう。
 だからこそ、今、日本人が日本人らしくあることは、フランスにとっても
 いや、世界にとっても、大切なこと、あるべき重要な事の様な気がします。
 そうしないと、世界中どこに行っても同じ文化で同じ建物で・・では
 大切なことを気付かせてくれる機会を喪失してしまう可能性がありますよね。
 生物の多様性を維持する上でも、みなさん日本を再考してみては・・
 えらそうな事を言って、すみません

 

 

白けの時代からの脱出

2011-07-29

batau

 熱く生きている人からは、なんてくだらない話題と思うかもしれない。
 でも、熱く生きられないで、もんもんとしている人がいることも、また確かだろう
 努力が、足りないからだと、決めつけないで、もうちょっと考えてみたい。
 まわりをみわたせば
 人格を疑うような人が、政治家だったり、
 ひといちばいわがままな人が芸能人だったり、
 お金儲けしか考えてないのが、会社だったり
 せこすぎる人が、上司だったり、
 本来目標とすべき人たちが、最低なのは、とても不幸なことですね。
 うらはらに、世の中、あきらめずに努力すれば、必ず成功すると
 原子力の安心、安全と同じように叫ばれてます。 
 ほんとうに、そうなのかな?だって成功する人は、一握りの人だよね。
 全員成功するようなことなら、それって成功って、言わないですよね。

 漠然と、努力しても無意味なんじゃないかって、思ってしまう
 手段を選ばないやつには勝てないし、そこまでして勝ちたくもないし
 それが、証拠にその先にいる人に、尊敬できる人がみつからない
 結果を出した人しか、評価されない、地味な人は、無視される

 そんなんやかんなんやで、なんとなく白けてしまう。
 そうは、いってもふてくされていては、損するのは自分ですし、
 どうにか、しないとね。

 さて、極論です。まずは、自身の価値観を総点検しないと。。
 その、価値観はひょっとしたらマスメディアに誘導されたものかも
 世の中の成功とは、嘘と矛盾と欲望と偽善に彩られていて、
 真面目に考えたら、 たちまち自己矛盾に陥るでしょう。
 僕は、みんながみんな持ったら、価値のなくなる物に、
 人を豊かにする力は、ないと思う。お金、地位、名誉・・・
 もし、そう思ってくれるなら、もう一度、真剣に取り組まないとね。
 ほんとうに、自分にとって、大事な事って、なんなのだろう?
 生きて行く上で、絶対しないタブーって、なんなのだろう?
 自分が、流されてると思う時って、どんな時なんだろう?
 我を忘れる時って、どんな時なんだろう?
 ほんとうに、美しいと思えるものって、なんなのだろう?
 やりたいことが、みつからないからと言って、焦ることはないと思う。
 行動できないと、自分を責めることはないと思う
 自分の運のなさを、嘆くことはないと思う
 じっくり、取り組んで行けば良いと思う、自分の中の美に向かって
 血が、沸き立ってくるまで、待てばいいと思う
 ほんとうに、自分のなかから血からが、出てくるまで、
 たとえそれが、自分が死ぬ10秒前だったとしても・・・

 

 

情報化社会の中の映画

2011-05-31

honkon

 今回の原発爆発のように、僕たちがもし、マスコミやネットからの情報が得られなかったら、 
 たぶんなにも知らなかった。そして、放射能の怖さも、知ることは無かった。
 その恩恵は、すばらしいもののはずであるが、その反面、
 原発がそんな危険だなんて事実も、故意に知らされてこなかった。
 きっと、誰もが情報というものの本質を考え直させられたのではないでしょうか
 現代社会に於いて、もはや情報なしに生活していくことは、非常に困難を伴うでしょう。
 1995年の月刊アスキーに脳型コンピューターを作ると言う企画特集がありまして、
 大変面白かったのですが、その中に、人は食べ物を食べて生きていると考えられてますが
 同じように、情報も食べて(処理して)生きています。これらがすべて遮断されると
 脳は停止してしまい。やがて死を迎えます。とのことでした。
 なるほど、情報とは、大変重要なものなんだと再認識した記憶があります。
 でも、あらためて冷静に考えてみると、
 この本に書いてある情報とは、五感もしくは六感から得られる情報の事ですよね。
 そして、今僕たちが情報と言っているものって、ひょっとして視覚と聴覚からしか得てない
 もし、食べ物にたとえるなら、これって栄養が偏ってませんか?と単純に考えてしまう。
 漠然としか、言いようがありませんが情報の取り方のバランスが悪くないの?
 ネットやテレビから、情報を得るのは良いけれど、ほどほどにしないと身体に悪そうですね
 ところで、映画も視覚と聴覚だけじゃないですか~
 しかも、最近の技術の進歩は凄いのですが、それらは、真実を伝えるために使われるのでなく
 人を騙すためだけに使われている。そんな気がする
 映画も、マスコミと同じように、やがて行き場を失って、行き詰まってしまうのだろうか
 映画が誕生して、なんとか真実を伝え残そうと努力した、そんな時代に戻って
 できるならば、ほかの五感も刺激できるような、そんな映画を作れたら、
 すこしばかり明かりが見えてくるような気がする
 最後に、身体教育研究所の野口さんが言ってた言葉、
 人は、食べ物を食べて生きていると考えられてますが、
 じつは、文化を食べて生きているんです。
 頑張ろっと。
 注意、僕の勝手な考えでした。映画もマスコミも行き詰まってません、超繁栄してます。
 ごめんなさいでした

 

 

プランタン

2011-04-12

hana5

 プランタンと言えば、フランス語で春という意味。語源でいくと、プルミエ、トン、つまりはじまりの時と訳すのでしょうか?そう、春には、いろいろな新規事が、はじまります。ところが、今年は、なかなかそんな陽気な気分になれない。震災と原発のおかげでしょうか・・・
 前回奇しくも、ポジティブ思考の人は、ネガティブな状況を欲しているんじゃないかって
 ひどいことを書いてしまいましたが。。 そして、こんなことになろうとは、・・
 実際、震災から、水を得た魚の様に活動的になる人やら、僕の様に動けなくなってしまう人やら
 いろいろですね。僕の場合は、怠け者なので・・参考になりませんが・・
 しかも、先週、近所に住む僕の友達が・・アパートで亡くなっていました。
 震災以来、連絡がつかなくて、、どこかに逃げててくれればいいねって、話してましたが
 まさか・・言葉もありません。精神的に追い込まれてるのは知ってました。・・
 しかし、なにもしてあげられなかった・・
 会うときは、いつも満面の笑顔で「元気っ?」って、
 そんなにポジティブな人を装わなくてもいいのに!・・・
 それにしても、俺はいったい何をしてんだろう
 僕たちは、友達のふりをした、加害者だったのかもしれない。

 プランタン、何かをはじめるとき、それが今だとするならば
 気持ちは、どう切り替えるのか、いやそもそも切り替える必要性は、あるのか否か
 現実は、起きたことばかりだが、不安も希望も、じつは実際には起きてない未然形の話だ
 そんな、得体の知れないものに振り回されるのも、ばかげた話である。
 しかし実際は、気持ちがひきづられっぱなしなのである。
 そもそも、精神力で乗り切ろうとするから限界があるのかもしれない。
 やはり、ここはひとつ身体に自分をゆだねるしかないのかもしれない。
 身体は、不安や希望を抱かない、そして、僕たち以上に情報を持っている。
 己を捨てて、身体の欲するところに、我が身を置くべきなのだろう
 そのための型であるし、日本人としてのDNAが、きっと助けてくれるはずである。
 震災という外圧に、反応するのも人生だし、
 この逆境を、あえて断ち切って日本人として帰依する。チャンスの時なのかもしれない。
 プランタン、何かをはじめるとき、それが今だとするなば、
 実は千載一遇のチャンスの瞬間かもしれない。

 もちろん、そんなことすら言える状況に無い方々がたくさんいらっしゃることは、わかってます。
 ごめんなさい。
 今の、僕の勝手な状況下での話と言うことで・・・

 

 

 

 

表現について

2011-02-19

kyouto5

 またまた小林秀雄シリーズです。朗読したときに参考資料として読ませて頂きました。
 この中で、expressionという言葉に、「表現」という訳語は、あまりうまい訳語ではない。
 元来、この言葉はものを押し潰して中味を出すという意味だ、という一節がありました。
 僕は思うに、同じようにpassionと言う言葉が「情熱」とう言葉で訳されてます
 ポジティブ思考の人が好きそうな言葉ですが、Passionといえば「受難」
 の意味で、実は能動的な意味合いは無いですよね。
 もちろん、これらの言語は、宗教上の意味合いが色濃いので
 簡単には、理解も説明もできないことだと思いますが、
 おおかた、表現にしろ情熱にしろ、なにかしらの外圧や苦難からの解放
 といった、イメージなのでしょうか?
 そういえば、最近見て面白かった映画でいえば、ペルシャ猫を誰も知らないとか
 ミルクとか、とか、映画やドラマのほとんどがそういった内容ですよね。
 さてさて、困りましたね。
 このexpressionで、日本のわびとか、さびとか、かけとか、・・表現できますかね
 よく、言われるのが宗教にしても、藝術にしても最終的には、同じ事を言ってるんだろ
 西欧も東洋もないよ、究極おなじ場所に到達するんだろってね。
 かなり乱暴ですが、そう思ってる人は案外多いですよね?
 そういう、僕もその一人だったのですが
 科学全盛のこの時代では、結果が同じなら、皆同じもの的な発想が主流ですが
 いやいや、まてよ、スタートが違うと、それはまったく質のちがうものなのでは・・・
 かにかまを食べて、かに食べた気になってるような
 紙一重って、言う言葉がありますが、つまり、まったく違うものと言うことですよね。
 プレッシャーをかけて、絞り出すように出てきたものを表現する世界と
 無から、または無へむかうなかで、うまれるものを表現しようとする世界、
 無から有を、作り出すことは、もちろん神を冒涜しますので、西欧では厳しい?
 これって、おなじく藝術の表現手段ですが、少し違いますよね。
 ただ、悲しいかな、日本の芸能界の現状は、99.9%が前者の方式ですか?
 新劇にとどまらず、映画やドラマ、歌舞伎に至るまで、これじゃないですか???
 僕自身は、前者以外のアプローチを教わったことは、ありません。
 しかし、思うにこの願えば夢は叶う的、ポジティブシンキングな表現方法は
 逆説的に、裏ではネガティブな状況を欲していることになりませんか?
 究極なければ最後は、薬にたよるとかね・・・、極論を言ってるんですよ(すいません)
 つまり、自分の置かれた境遇だとか状況だとか時代背景とかに影響を受けますよね
 しかし、後者の場合はどうですか?日本の故人の知恵はすばらしくありませんか?
 へへ、おいおい能書きは良いから、そういう映画作ってみろよって、
 お叱りが、聞こえてきそうです。そうですよね。頑張ってみたいです。
 言うのは、簡単ですね。風呂屋の亭主ですね。ゆうばっかり

 

 

美を求める心

2011-02-02

kyouto4

 先日、朗読で、小林秀雄さん無私の精神から、「美を求める心」という箇所を読みました。
 まあ、それにちなみまして、僕なりの意見を考えてみました。
 実は、このことを一生懸命考えた時期がありまして、・・そうですね10才のころ。
 誰にも邪魔されない、校庭の片隅で、思いにふけったものです。
 このころ、すでに超ネガティブでして、自分にひどく自信が無くて、
 存在理由がわからないというか、自己嫌悪のかたまりでして
 それで、自分なんかは、美とか縁がないし、そもそも美というものは、
 ある一部の人に与えられた、特権なのだろうか?どうなのか?
 僕の様な人間でも権利はあるのか?そうだとしたら、美とは何なのかと

 で、当時、ない頭で考えた結果が、たしか、美とは真実を求める精神だ
 と結論を出したような、記憶があります。

 今は、どうなのか、と言いますと、
 まずこの真実と言うやつがとっても、現状、くせ者に思えるんですね。
 この真実という言葉が、人の道を迷わせてると思うんです。
 真実をおいもとめた、結果、人殺しやら、仲違いやら、絶望やら・・・
 人を責めたり、嫌ったり、拒絶したりと、真実は良いこと無いですよね。
 だから、この言葉から真実を消すと・・・・

 美とは※※を求める精神だ。
 あれ?
 そうか、
 美とは、無を求める精神だ
 美を求める心とは、無の精神だ。

 ああ、とっても無理矢理な展開っぽいですが偶然ですよ
 
 ただ、この無という概念もとても難解ですね。
 乱暴に平たく、このさい、勝手な意見を言ってしまいます。

 たとえば、道を歩いていて菫が咲いている。美しい
 菫は、僕ではないし、僕の持っている美ではない
 いわば、僕にとっての無の世界
 でも、この無の世界は、愛する人の中にもある。
 彼女は、菫ではないし、菫をもっていない
 つまり、彼女にとっても菫は無の世界
 僕と彼女は、無の世界の中に身を置くことで
 菫の美について、 共有することが出来る
 これが、美を求める心なのかなと・・・・
 
 非常にごめんなさい

 追伸
 あの、朗読会のあいだ、外で待ってた、ファンのかた、本当にありがとう。
 寒かったでしょう
 感謝で、言葉もありません、無とか言ってないで、頑張ります
 良かったら、ここから メール下さい。よろしくお願いいたします。

 

喜味こいし師匠と舞台

2011-01-14

versaille8

 自分も歳を取ったわけだから、別れはしょうがないことだと思うけれど、悲しいです。
 こいし師匠からは、ほんとうに多くのことを学ばせて頂きました。
 ほんとうに、心底やさしい頼れる大先輩でした。
 よく、将棋の相手もして頂きました。
 ぼくが、不覚にもつい口を滑らせて、
 「なんや、このえげつないおっさんは~!」と言ってしまったときも
 ただ、ニコニコして許してくださいました。
 ていうか、気にしてなかった
 飲み屋にも連れて行って貰って、深い話をいろいろ聞きました。
 すっごく偉大な人なのに、まったく偉そうなそぶりしません。
 すごい人生を歩んで来たのに、一言も苦労話をしません。
 黙々と舞台に打ち込む姿を見せるだけです。
 そして、人を爆笑の渦へと巻き込んでいく
 ただただ、頭が下がるだけです。
 僕は、肌で感じました。
 笑顔のまま沈黙のまま圧倒されるのを
 威圧されない、威圧感、壮大な人間性を感じさせる瞬間を
 自分の人生なんて、思い描けなかった時代
 真剣に生きることしか許されなかった時代
 そんな、師匠が僕に言った言葉
 「近藤君、道はひとつしか無い訳じゃないからね」

 子供の頃から、あこがれていました。
 ほんとうに、出会えたことを感謝しつつ
 ご冥福をお祈りします

 

池内淳子さんと舞台

2010-10-03

suisen

 おっきいちゃんといえば、池内さん。僕は、ご一緒させて頂いていた舞台の内容がいつも重かったせいか、イメージとしては、もの静かで、おしとやかで、それでいてなぜかこちらが襟を正したくなるような。そんな、張り詰めていてしかも繊細で、重厚な雰囲気を持っていらしたと思います。
 そういえば、観劇の帰りに一度一緒に食事に行きました。(団体ですよ)
 超高級ステーキ山岡久乃さんのおごりでした。
 でも、僕はなぜか、山岡さんの隣で、どつかれながら食べていたので(ダメだしね、厳しい!)
 池内さんとは、お話しできなかったです。

 あと、ある日僕がNHKに飛び込みの営業に行ったとき
 一応スーツ着ていったのですよ、その方が、守衛さんをだませると思って
 それで、帰りがけに、ふと見たら池内さんがドラマの収録をしていたので
 挨拶していこうと、顔を出したんです。
 そしたら、・・・
 「あら、マネージャーさんになったのですね?スーツ着てね」って
 えーー、そう来たかがっくり

 そうです。池内さんは、以外と予測不能の動きや言動をするって、
 これ、僕の中の勝手なイメージでした。
 限りなく独り言に近い愚痴を耳元で、ささやかれたり。・・・

 いえいえ、ほんとうに、いい人でした。
 今のアイドルばかりの芸能界ではもう、こういう雰囲気の人が出てこないのでは
 そういう意味でも、池内さんが昭和を代表する大女優であったことは、間違いありません。
 引き締まった舞台をたくさん、ありがとうございました。

 そして、心からご冥福をお祈りします

 

 

 

受け売りだよ人生は

2010-09-22

cafe2

 僕は、新しいことを知ると、悪い癖で、ついつい人に話したくなる。僕の周りには、その手の被害者がいっぱいいらっしゃると思うのですが・・・
 そんな被害者の一人から、こんなこと言われた。
 「完全に自分で理解して自分のものになるまで、人に言わない方がいいんじゃない?」
 確かにその通りです。はい、そうとう、迷惑だったんだね。ごめんなさい
 と、ひどく反省

 確かに、ばかばかしいほら話だったね、いかんいかん・・
 が、しかし、最近はじめたもので、早くても習得に30年はかかるだろうな~
 ていうことは、何!もうこの人生では、無理!もう死ぬまで沈黙しろってか!う~ん(つらいねそれは)
 演劇に関して言えば、生まれた時点でもうすでに手遅れだよね!
 そもそも、生まれた環境が違うし、3歳で舞台とか、日舞とか三味線とか無理だし
 いやいや、第一そんな、理解してからって言ってたら、学校の先生なんて・・いなくなるよ
 だれが、アインシュタインやら熱力学やら完全に理解してるよ・・・
 また~、極論にするって、思ってるでしょう~

 このブログは、だいたい極論なんです。

 この歳になると、いろいろなことが手遅れでしょうと思えるようになる。
 何でもできると思った20代
 何かできるだろうと思った30代
 何か一つぐらいはやらなきゃと思った40代
 何もできないのかも人生はって、思える50代(超ネガティブ)
 でもね、この手遅れ感が、最近微妙に心地よい、自分の選んだ道の結果が今の状況だし
 人の出会いとか、自分が感化されたものもこの順番だから受け入れられたものだし
 今、自分の前にある目標は、とうてい死ぬまでに、なしえるものではないと思う。
 一つの人生、一人の人生でなしえないものに、向かっていくのも良いのかもしれない
 長い長い人々の営みの一コマになれれば、それで良いのかも
 そういうおおきな流れで、人生が見えるようになってきた(たんなる逃避とも言える)
 だからね、すべてが未熟で、いいんです。受け売りだろうとなんだろうと
 わかる人がわかるし、わからない人はわからない
 そんなことを、面々と続けていけばいいんですよ
 そんなね、この歳になってね、誰でもわかる簡単な話ししてんじゃないんですよ
 歳を重ねるほどに、完結にむかってるんじゃないんだよ
 どんどん、どんどん、混沌に向かって、歩いているんですよ、きっと
 だからさ、受け売りで、いいじゃない、そんなことでしょう人生は

 しかし、話はかわるけど、科学者って、若くしてすごいこと成し得たりして、びっくりだよね
 それに比べて、芸能は・・天才子役って言ったって、底が浅いし
 いや、科学も案外、浅いことやってるのかも・・
 意味不明のブログになって、しまったごめんなさい

 P.S 受け売り許可はちゃんともらっているんですよ(笑)

 

 

 

 

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